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原爆投下  20130809

2013-08-09 | 日記
日記 原爆投下 20130809

長崎に原爆が投下された68年前のこと、それはなぜだったのか、当初目標は、小倉であったところを長崎にかえた。中日春秋が神話は作られるとして日本に原爆を投下した理由を正当化するような戦勝国の話を書く。終戦を導いたものには違いない新型爆弾はそれまでにない壮絶な結果をもたらした。長崎の原爆はファット・マン、プルトニウム爆弾で、広島より強力、TNT火薬21000トン分の威力だった。


広島の原爆投下はポツダム宣言に対する日本政府のコメント、黙殺、という微妙な言い回しが、英訳された時に、ignore と訳されて しまったことが原因である、といわれている。黙殺と無視と、黙殺というのは、深く受け止めているということ、無視では全然気にしてないこと、になるか・・・


中日春秋
>どんな国家や民族にも、目を背けたい後ろ暗い歴史がある。それを正当化するために後から並べた言い訳や理屈はいつか「神話」となり、過去を直視することを妨げる
▼明らかに事実ではない神話に彩られているのは、広島、長崎への原爆投下をめぐる物語だ。ポツダム宣言を黙殺した鈴木貫太郎首相の言葉が引き金になった、本土決戦を回避し結果的には百万人の米兵の命を救った-。戦後、繰り返し言われてきた
▼トルーマン米大統領からの原爆投下命令は、ポツダム宣言の前にすでに実施部隊に届いており、黙殺発言とは関係ない。米兵の戦争犠牲者数はどんどん上方修正され、百万人の命を救ったという神話が完成する
▼原爆は多数の兵士の人命を救った「良い兵器」であり、投下によって戦争を早期に終結させた、と教えられてきた米国の人々は良心の呵責(かしゃく)から逃れられた。この神話を今、見直そうという動きもある


ポツダム宣言に対する日本政府のコメント、黙殺 という表現が、英訳された時に、ignoreと訳され無視と受け止められたことのようだ。黙殺する take no notice of、ignore、refuse [【形式ばった表現】 do not deign] even to comment on something  無視する ignore、disregard、neglect、take no notice of by‐pass


1945年8月6日、トルーマン大統領はポツダム会談からの帰路、大西洋上の巡洋艦オーガスタ上、声明を発した。
>一九四二年以来原子兵器の完成の競争が米、英とドイツの間に行われてきた。だがわれわれが勝った。廿億ドルの予算と十二万の人員でわれわれはこの史上最大の科学的冒険で勝利を得たのである。史上最初の原子爆弾が軍事基地である広島に落とされたのは非戦闘員の死傷を少なくするためであった。これは警告であり、日本が降伏しない限り引き続き原爆を使用する。不幸にも日本で多数の非戦闘員の生命が失われるだろう。日本の非戦闘員が即時工業都市を去ることを勧告する。私は原爆の悲劇的な意義を理解している。われわれがこれを使用したのは戦争の苦痛を短縮し、多数のアメリカ青年の生命を救うためである。   昭和28年8月7日 社会タイムス


http://oujyujyu.blog114.fc2.com/blog-entry-1101.html

第二次世界大戦が原爆で終わった理由

WHY WORLD WAR II ENDED WITH MUSHROOM CLOUDS
ジャック・R・ポーウェルズ  By Jacques R. Pauwels

>原爆は、ソ連が極東に介入する直前に準備完了した。だが、1945年8月6日の広島の核爆発は、ソ連の対日参戦を防ぐには遅かった。また、アメリカが期待したようには、日本はすぐに降伏しなかった。そして、1945年8月8日、ドイツがベルリンで〔5月8日に〕降伏してからぴったり3か月後に、ソ連は日本に宣戦布告した。翌日の8月9日に、赤軍は北支に駐留していた日本の軍隊を攻撃した。もともとワシントンはソ連の介入をずっと要望していたが、最終的にソ連が本当に介入したときには、トルーマンも彼のアドバイザーたちも、スターリンが約束を守ったことに歓喜するというにはほど遠かった。日本の統治者が広島の爆撃に直ちに反応して無条件降伏しないということは、1機の飛行機と1つの爆弾だけでそれだけの損害が発生したことを理解できていない可能性があった(従来型の空襲でも同等の被害が発生していた。例えば1945年3月9~10日には何千機もの爆撃機が首都を襲い、広島以上の被害者を出している)。
いずれにしても、無条件降伏には少し時間が必要であり、この遅れのためにソ連が対日戦に加わったのである。ワシントンはこれに非常にイラだっていた。ソ連の対日宣戦布告の後、1945年8月9日、第二の原爆が長崎市に落とされた。アメリカの元従軍牧師は後にこう述べている。「私は、二発目の爆弾が落とされた理由の一つはこれだと思っている。急いでいたのだ。ソ連が現れる前に、日本を降伏させたかった」


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