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意志の命令

2018-02-08 | 木瓜日記

脳の活性化を図ろうとして、果たして、どういうふうに脳を使っているのか。機能停止には大脳の生理を分析することで、だめになってしまうというようなことは、わかりよい。それを脳の働きを使う側からすると、まずは記憶にある。覚えるか、思い出すか、これは違う作用のように見える。記憶をあわせた思考には、脳のままに、というのは、記録や画像、映像を見ることなく、それを行うということが、思考はどう行われているかと、組み合わせた脳にある情報で判断する、推理する、論理を組み立てるなどと、そこにはイマジネーションとひらめきが加わる。そして脳の働きの重要なものは、感覚をとらえる、認識、認知の能力である。記憶、判断、認識、知覚と思考である。そしてさらには、運動機能である命令する作用がある。これには身体の反応が重視されるが、それには意志の命令がある。脳が働くには、その機能で何をするにしても、心理に及ぶ命令として見た、脳による切り替える働きで、身体、心理、感情に及ぶことがある。



木瓜の花 - 春の季語:水牛歳時記
sogyusha.org/saijiki/01_spring/bokenohana.html
木瓜の花(ぼけのはな)

木瓜の花(ぼけのはな)
 バラ科の樹高一メートルから二メートル弱の落葉低木で中国西南部の原産。日本には平安時代にもたらされたようである。三月から四月に梅の花を大型にしたような、紅色、白、絞りなどの美しい花を咲かせるので、古くから庭園樹として愛されてきた。温暖化の影響が木瓜にも及んでいるようで、近頃は庭に植えっぱなしなのに二月に咲いたりすることがある。園芸店で売られている盆栽の木瓜は温室で育てられているので、これはもう二月から沢山の花を咲かせている。
 木瓜の花色はさまざまだが、最も多いのが深紅色の緋木瓜、純白色の白木瓜、白に紅色の絞りがかかった更紗木瓜、朱色で大型の花弁を開く蜀木瓜などがある。近縁で樹高が三、四〇センチくらいしかなく、枝をたくさん叢生するクサボケ(野木瓜)というものもある。どちらも花の後、梅の実くらいのややいびつな円形の果実をつける。クサボケのことをシドミとも言う。 梅の花のように清楚に気品を漂わすというのではなく、木瓜の花は鄙びた感じである。また桜のように堂々と春を謳歌するというのではなく、片隅でのんびりと春の到来を楽しんでいる風情である。そんなところが俳人の好みに合ったのだろうか、古くから俳句に詠まれている。木瓜の花の句には、のんびりした、心がなごむ感じを詠んだものが多い。

  紬着る人見送るや木瓜の花        森川 許六
  初旅や木瓜もうれしき物の数       正岡 子規
  木瓜咲くや漱石拙を守るべく       夏目 漱石
  木瓜咲きぬ歯と飯茶碗欠けもせで     秋元不死男
  口ごたへすまじと思ふ木瓜の花      星野 立子
  木瓜の花こぼれし如く低う咲く      大谷 句仏
  木瓜を見てをれば近づきくる如し     石田 波郷
  木瓜紅く田舎の午後の続くなる      橋本多佳子
  肩を越す木瓜のまぶしき中通る      篠原  凡
  木瓜燃えて真昼愁ふることもなし     相馬 遷子





墨攻
2007年02月08日

意外にも、ラブストーリーだった
兼愛の理想は、不攻の合理となるか、人間の本性を、この場合は嫉妬を買ったのを、墨者は見失ったとある
リョウに請われ、また、チョウに請われたらどうするか、その矛盾をどう解くか
2時間の劇場空間は息をもつかせぬ活劇を配したが、もう一度、中国語を聞きに行きたい

これはウイキペディアにもあった
>『墨攻』(ぼっこう/ぼくこう)は、戦国時代の中国を舞台とした酒見賢一の歴史小説。また、それを原作とした森秀樹の歴史漫画およびそれらを原作とした日中韓合作の映画作品。なお、「墨攻」という単語は、酒見が「墨守」という言葉から作り出した造語である。
>漫画版の中国語タイトルは『墨子攻略』であるが、映画版は中国語でも『墨攻』である。

次いで、墨子
>墨子(ぼくし 生没年不詳)は中国戦国時代の思想家。あるいはその著書名。墨家の始祖。一切の差別が無い愛(兼愛)を説いて全国を遊説した。諱は翟(羽の下に隹)という。
最初、儒学を学ぶも満足せず、独自の学問を切り開き、墨家集団を築いた。魯の生まれとも宋の生まれとも言われている。また墨(いれずみ)という名前から、入れ墨をした罪人であったとも考えられる。


社会科学とは何か、これも科学の手法によって明らかにされる
理論はともすれば教条に陥りがちな社会分析となる
実践が何であるか、常に現象を追う限り、社会学には未来図を見出せない
歴史の手法がそうであるように


説明と記述の違いは現象と論理の違いにある
ただし説明を論理とし記述を現象とする、という広い説明がある
これには現象のよって来る因果を含めるか、あるいは論理に根拠立てをするかと、いずれの場合にも説明となり、また記述ともなる
日本語の記述はありのままの現象を説明する、つまり説明は記述となり、記述はまた説明となる、包括解釈ができる

ただし、記述科学、説明科学となると科学の手法を考えることになる
方法論の有無だ


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