宝塚の前に住んでいた私のマンションでの村山聖である。実はその後ろに写っているのが、震災で亡くなった船越隆文君である。私が偶然撮った写真だが、悲しくもあり、懐かしい一枚だ・・歳月を感じる。
弟子のことでいろいろあるたびに思うのが、今生きていることと、かって生きていたこと・・である。だからこそ、どうでもいいことに関わりたくないのと、日々大切なことに関わりあって生きていきたい気持ちが強い。
生きているのは仮の宿なのだ、心のどこかにかすかにそう思う気持ちがある。
弟子のことでいろいろあるたびに思うのが、今生きていることと、かって生きていたこと・・である。だからこそ、どうでもいいことに関わりたくないのと、日々大切なことに関わりあって生きていきたい気持ちが強い。
生きているのは仮の宿なのだ、心のどこかにかすかにそう思う気持ちがある。
やはり志の高さが伺えるような・・
船越さんはまだ16歳だったとか・・
震災は悲しい出来事でした
でも、いつも忘れてはいけないとも思います。
胸が締め付けられるようです・・・
「俺は、この13年あまり、何をやってきたんだろう?」と思わせたり・・・
現在の自分の生き方を、問われたような気になる一葉です
夭逝した人たちの無念を、感じることによって
自分の生きる方向を修正していくことが
同時代人としてできること・・・
「忘れないこと」ではないかと思いました
我未だ生を知らず、いずくんぞ死を知らん・・・
とは論語ですが
花の美しさ、夕焼け空の素晴らしさ・・・など
自然の良さを賞でながら
飽くまで死を語らず生き方を問う・・・
森先生は、その点が人間として信頼できます
家内は未だ、よう手を着けません
”生きているのは仮の宿”
そうですね、今は仮の宿に居るのですネ
それにしても、25年間の写真の記録は
重いです・・・
せめてこれから、時間が止まった二人に顔向けできるように・・かすかな確実さを身につけて生きたいですが。
これからも、呆然と立ち尽くすよりないかもしれません。
時間が癒してくれるのを待つしかないのでしょうね・・
村山聖は10年を経て、アルバムからふいに写真がでて来ると懐かしくうれしく思います。