禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

日本の看護師のモラルの高さ

2023-10-07 07:00:47 | 闘病日記
 入院している患者は大抵不安を抱えているものである。それに、相部屋になっても隣の患者との会話というものもほとんどない。患者と言葉を交わす相手は看護師しかいないのである。患者が看護師に多少甘えたくなるのもある程度やむを得ないと思う。孤独に耐えかねた患者はできるだけ看護師を自分の所に引き留めようとして、やってくる看護師ごとに毎回同じ話をしたりしている。そのくせ、最後には「お忙しいところを引き留めてすみませんねぇ」と殊勝な言い訳したりするのは可愛い方である。

 中には、居丈高に若い看護師に説教しだす人もいたりする。入院してきたばかりの患者に、担当看護士が「明日の朝いちばんに採血を行います。」と告げた。そしてその翌朝のこと、その看護師は予告通り採血に来て処理し終えたのだが、その患者は「あのね、普通世間一般の常識ではね、『朝一番』と言うのは‥‥」と言い始めた。いったいこの人は何を言おうとしているのだろう? 私にはなにがなんだかさっぱり分からなかった。が、その内どうやら「朝一番と言ったのに、来るのが遅い」と言いたかったらしいと分かった。他の患者の所へは担当の看護師が30分前程からきているのに、自分の所へはなかなか来なかったということを言いたかったらしい。私はある程度この人の気持ちは理解できる。いったん入院すると、患者がコミュニケーションできる相手はほぼ看護師しかいないからである。おそらくこの人は目が覚めてからずっと看護師が自分の所へ来てくれるのを今か今かと待ち構えていたのであろう。早朝の採血は食事前に終わっていればよいのであるから、2,30分早かろうが遅かろうが何の差しさわりもない。患者が文句言う筋合いはないのである。ただこのおじさんは自分の気持ちとして「もっと早く来てほしかった」という不満を「普通世間一般では『朝一番』と言えば‥‥」というお説教の形でぶつけているだけの話なのだ。
 
 普段はどうでもよいことと見過ごしているようなことでも、いざ自分の身に少しでも不都合と思えば、それはとても切実な問題と思うようになるのが人間である。ある日夜遅く入院してきた人がいた。なんでもその人はシャワーを使いたかったらしいのだが、その時はもう浴室の使用時間を過ぎていた。それで、熱いおしぼりで体を拭きたかったのだが、その病院では患者に対しておしぼりの提供はしていない。出入りの業者とパジャマやタオルのレンタル契約すれば、自由におしぼりを使えると説明されると。「なぜパジャマのレンタル契約をしなければ、おしぼりを使えないのか? その根拠を教えて欲しい。」などと言い出す。根拠も何も、病院には洗面所に行けば温水がでる蛇口があるので、そこでタオルを絞ってそれで体を拭けばいいだけのことである。一番の問題は、そこに来る看護師ごとに同じことを繰り返し訴えることである。看護師は病院の経営上の問題にノータッチであるなどということは全く考えないらしい。それほど病院の運営に不合理を感じるのならば、自分で直接事務長に掛け合うしかないと思うのだが、「いったいこの病院の情報共有はどうなっているんだ。」などと看護師に文句言っている。

 看護師は決して正面から反論したりはしない。常にやんわりと受け流している。せいぜい遠回しに「わたしたちはそういう問題には関われないんですよ。」という程度である。看護師はみな若いが、患者と論争しないという教育を受けているのだろう。看護の専門家であるという矜持を持ちながら坦々と業務をこなしている。本当に大したものだと思う。

 私は普段は毎朝規則正しく便通があり便秘で悩んだ記憶はあまりない。ところが、入院して生活が変化すると途端にひどい便秘になってしまった。毎朝あったはずの便通が三日も四日もないととても不安になる。それで、排便を促すための座薬をもらうことにした。看護師が私にその薬を手渡す時に、「ご自分で出来ますか? 手伝いましょうか?」と私に訊ねる。私は内心で、おいおい俺はそこまで耄碌していないぜ、俺をからかっているのか?と思って、その看護師の顔をあらためて見るといたって平然としている。よくよく考えてみれば、私のいる部屋でも日常的にオムツ交換が行われているのだった。私をからかっているなどという考えが頭をかすめたのも、まだ少女の面影が残る若い看護師に対して私の方に侮りからくる偏見があったからだろう。彼女は単にプロフェナルな親切心から言ってくれていることに気がついた。

 私は日頃から日本の政治や官僚に対して文句ばっかり言っているが、現場で働いてこの日本社会を支えている人々には称賛と感謝しかない。済生会横浜市南部病院のスタッフの皆さん、本当にお世話になりました。ありがとうございました。 
 
この窓を1カ月間眺めていました。
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難病に罹ってしまいました。

2023-09-28 17:30:55 | 闘病日記
 長いことブログをほったらかしていたので、「もしかしたら、‥‥」と思った方がいるかもしれませんね。私はまあ何とか生きています。実は、8月21日から9月19日までの約一か月間入院していました。退院してから十日間経ってやっとブログに向かう気力がわいてきたところです。

 今年の春ごろから異変は生じていました。小便が異様に泡立ち始めたのです。私は血圧コントロールの為に毎月1回かかりつけ医に通っている。5月の健診時にそのことについて先生に訴えたところ、「御坊さんの4月の血液検査の数値は安定していて、腎臓にも今のところは問題はないと思います。」という返事が返ってきた。この先生は人間はとてもいい人なんだが医者としては少し頼りないと思っていた私は些釈然としない思いでその場は引き下がった。そして、翌月5月の健診の帰り際に先生が「次回来院時に血液検査をしましょう。」と言う。この先生は高齢者は3カ月に一回血液検査をするという方針なのだ。私自身は定期的に運動し体を鍛えている。血糖値、コレステロール等の成人病関係の異常値は一度も出たことないので、年一回の成人病検診で十分だ位に思っていたので、思い切って「先生、血液検査より尿検査をしていただけませんか?」とはっきり申し出た。

 結局、その日のうちに尿検査をすることになった。そして翌日、尿にタンパクが漏れていることが分かった。早速、近くの総合病院への紹介状を書いてもらった。そうこうして6,7月は検査々々で明け暮れた。通常の血液検査はせいぜい試験管2,3本の血液を採取するだけだが、試験項目が多いからか12,3本の血を採られた。X線撮影に始まり、MRI検査、胃の内視鏡検査、大腸の内視鏡検査、眼、歯、骨密度の測定まで行い、最後に腎臓に針を刺して直接組織を採取する腎生検まで行った。
 
 そうして下された診断が「一次性ネフローゼ症候群 膜性腎炎」という病名であった。ネフローゼというのはタンパクが尿から漏れてしまって、血中タンパク(アルブミン)が不足しいろんな不都合が起こる症状である。ネフローゼには一次性と二次性があって、その原因が悪性腫瘍とか糖尿病による場合は「二次性」であるとされ、元の病気を対象とする治療が行われる。「一次性」の方は原因が分からないので、今のところ根本的な治療法が確立されていない。そんなわけで厚労省から難病指定されている。そんなわけで、この私はれっきとした難病持ちなのである。

 治療法としてはいまのところステロイドによる治療しかないらしい。ステロイドだけで効かない場合は、合わせて免疫抑制剤も使用する。しかしよく聞いてみると、この病気に関してステロイドが有効なのは3人に一人しかいないのだという。残り二人の内一人は自然治癒するがもう一人の方は結局腎不全になってしまうということであった。自然治癒と言ってもそれはいつのことになるか分からない、それまでに体はかなりのダメージを受けてしまうだろう。先生は断定的なことは言わないが、どうやら私は幸運な三人のうちの一人らしい。ステロイド投与から3週間過ぎたあたりから尿たんぱくの量が減り始めているので、個人的には楽観視している。

 仮に完全回復とはいかなくとも、すでに74年間も生きてきた。一昔前ならかなり長生きの部類である。それに歳の割に私は今まで健康過ぎたようにも思う。週に3,4回ジムに通って、時速10kmで30分間走る持久力と懸垂7回出来るだけの筋力をこの年まで維持してきた。これからは多少健康にハンディを抱えて生きていくのが公平というものかもしれないと思うようになった。それに今回の経験で分かったのだが、腎臓病というのはだるいというか少ししんどいだけである。じっとしていればそれほど苦しくはないのだ。これはもともと怠け者の私には向いている症状かも知れない。鋭い痛みや激しい苦痛などというものはとても耐えられないが、単にボケーッとしているだけのことなら既に頭がボケ始めた私にはそれほど苦にならないからである。

 そんなわけで、難病に罹ったと言ってもそれほど前途を悲観しているわけではありません。

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