もう20年くらい前になるだろうか、あるテレビ局の視聴者参加番組の中で、高校生の「なぜ人を殺してはいけないんですか?」という質問に誰も明解な回答をすることができなかった。それ以来、この問題は日本中のいたるところで論じられ続けているように見受けられる。このような現象は、道徳の源泉としての宗教をもたない日本固有の問題かもしれない。
カントは自由な理性の判断により、普遍的な道徳律に到達できる、と主張する。そのための基本法則はというのは次のようなことである。
≪それが普遍的な法則となることを君が同時に意志することができるような、そういう格率(※注)にしたがってのみ、行為せよ≫
カントはこの基本法則にしたがってどのような道徳律が導きされるのか具体的な例は挙げていないが、各自の自由な理性によってしかるべき道徳律に到達するというのである。いわばそれは数学の定理のように与えられる自然法則と同じようなものであると考えられる。
それは自然法則と同等のものであるから、その道徳法則を守る効用あるいは非効用とは無関係に、我々は無条件にそれに従わなくてはならない。そのような観点から見れば、カントの「嘘論文」はある程度理解できる。
我々が持つ本能としての「必然の論理」は、明らかに決定的な道徳律を欲しているように思える。論理的にものを考える人にとっては、カントの提示は非常に魅力的なものに見えるのではないかと思う。カントは、形而上の領域にモーゼの十戒を記した石版が存在し、理性によってそれを見出す方法を示したのである。もし普遍的な道徳律が存在するなら、カントの示したようなものであるしかないような気がする。しかしそれはあくまでも、もし普遍的な道徳律というものが存在するならならばという話である。
仏教的視点から見るならば、この世界に通底する「普遍」とか「絶対」と言うようなものは存在しない。すべては縁起の中から生じる一時的なものである。道徳も、たまたまこの世界に出現した人間という、特殊な動物の習性から生まれたものにすぎない。人間の欲望や妬みといった感情、それと価値観のないところに道徳は存在しないはずだからである。
道徳律というものについて決定的なものは存在しないとなると、やはり自分の内なる声に慎重に耳を傾けながら、ある程度功利的な考えも導入するしかないのではないかと、私は考えている。
(※注) 「格率」というのは行為の主観的原則のことである。たとえば、「おれは女はなぐらねぇ主義だ。」といったたぐいの自分の行動の原則である。