前回記事では、机や人間というような個物について、その普遍的な本質というものが存在しないということを述べたのですが、今回は個物以外の概念について考えてみたいと思います。
古代インドの哲学者龍樹は大乗仏教の祖とされている人ですが、『中論』という書物を表しています。その中に次のような一節があります。
すでに去ったものは去らない。
いまだ去らないものは去らない。
現在去りつつあるものも去らない。
「すでに去ったもの」や「いまだ去らないもの」が去らない、というのはわかりますが、「現在去りつつあるもの」が去らないというのは、ちょっとその意味が分かりません。一体どうしたことでしょう。
龍樹のこのような奇妙なことばを理解するには、その背景を知る必要があります。中村元博士は「『中論』は論争の書である。」と言っています。そのころ説一切有部という有力な学派ががありました。その学派が概念がイデア的に実在するということを主張していたらしいのです。例えば、「走る」という動作についても、その「走る」というありかたの範型が形而上の領域に存在する。それも、人類が生まれる前から人類が滅びた後も実在する、というのです。それどころか、説一切有部の理論を拡大していくと、「走る馬」という概念ばかりか、「馬が走る」という命題さえもイデア的に実在する、というのです。
イデア的に実在するということは、それぞれの概念が個別に独立して存在するということでもあります。そうすると、「走る馬」と「走る」を組み合わせて、「走る馬は走る」という表現が可能であるばかりでなく、「走る馬は走らない」という表現も可能になるはずだ、というのが龍樹の主張です。龍樹は「走る馬は走らない」ということを主張したいわけではなく、説一切有部の主張することが正しければ、矛盾が生じるということを言いたいのです。無常を根本原理とする龍樹の立場では、永遠不変のイデアは認めることのできない概念です。
仏教は絶対的概念を認めません。すべては相対的で関係性の中から概念も生まれてくると考えるのです。だから、「走る」というありかたも、人間の生活様式やらいろいろの関係性から生じてくる、と考えられるのです。
では、「走る」のゲシュタルト崩壊を試みてみましょう。同じ字を続けてたくさん書き続けるとその字についてゲシュタルト崩壊すると言われています。ここではいろんな「走る」をもい浮かべてみましょう。「御坊哲が走る」、「トカゲが走る」、「稲妻が走る」、「ひかり号が走る」、「虫唾が走る」、「ダチョウが走る」、「妻が走る」、「キリンが走る」、「東京タワーが走る」、「日本が走る」、‥‥‥。
どうです、「走る」はゲシュタルト崩壊しましたか? 「走る」っていったいどういうことだっけ? というような感覚に陥りませんでしたか?
そうですか、崩壊しませんでしたか。ではもうちょっと理屈で攻めたいと思います。
もし、「走る」がイデア的にあるのならば、その普遍的な定義も存在する筈です。おそらくほとんどの人は、「両足を交互に前に出して速く進む」といったところでしょうか。
問題になるのは「速く」が厳密に定義できないことです。ここはオリンピックの競歩の定義を援用して、「両足を交互に前に出し進む、かつ前に出した足が着地する前に後ろの足は地面を離れていなくてはいけない。」としましょう。普通にこの定義の通りにすれば、だれの目にも走っているように見えるはずです。
では、この普通に走っている状態から、少しずつ歩幅を狭めていくことにします。そうすると、ある時点で「これはもう走っているとは言えないんじゃないか。」と言いたくなる時が来るはずです。例えば歩幅が1cmになったら、もう誰の目にも片足ずつ交互にその場飛びをしているようにしか見えないはずです。
問題は、「走っている」から「その場飛びしている」に変わるその境界が、だれでも一致するようには明確に引けないことです。「走る」の普遍的定義が困難なことが理解していただけたでしょうか。
仏教では、独自で存在できるという絶対的なものは認めないのです。なにごとも相対的であり関係性の中から生まれてくると考えます。というと、絶対的なものがなければ相対的ということも生まれないのではないかという人も時々いますが、それは西洋的な形式的な考え方に過ぎないと思います。絶対というのは一応矛盾のない概念としては存在しますが、現実には存在しない空疎で形式的な概念にすぎません。言うなれば絶対というのも関係性の中から生まれる相対的な概念なのです。
例えば、位置というものについて考えてみましょう。銀行は駅を出て、左に30メートルのセブンイレブンのある角をさらに左に曲がって、10メートル進んだところ、というふうに表現されます。これは銀行を駅からの相対関係で示しています。ロケーションを示すには、絶対表現というのもあってこちらの方は、緯度と経度でそれぞれ何度何分何秒で表現されます。でも、これは絶対と言っても、グリニッジ天文台と赤道を基準にした相対位置にすぎません。グリニッジ天文台と赤道が不動のものであれば、緯度と経度による表現は絶対的なものと言っても良いですが、地球は自転しながら公転もしているのだから、宇宙的な規模で見れば位置に関しては絶対的な基準はどこにもないのです。空間的位置に関する限り、絶対的基準がどこにもないにもかかわらず、私たちは相対的位置の中にいます。絶対はなくとも相対はあるわけです。