禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

雲は移動しない?

2020-10-31 09:43:00 | 哲学
 「サワコの朝」という番組を見ていたら、ゲストの気象予報士の森田さんが面白いことを言っていた。
「雲は移動しない。」と言うのである。空を見ていると、はるか西の方の雲がだんだんとこちらの方に向かってくる。どう見たって「移動」してくるように見えるのだが‥‥。
 
 森田さんの言い分はこうである。雲というのは細かい水滴でできている。その水滴がそのまま何十キロも移動するということは考えにくい。あるものは寄り集まって雨となって地上に落ちているだろうし、あるものはまた水蒸気になってしまったりしている。微細な水滴は長時間そのままの形を保てるほど安定してはいない。近くにやって来た雲を構成している水滴は、遠くでできたものではなくてそこで発生したものだと言うのだ。雲が移動するというのは、電光掲示板の文字が「移動」しているように見えるのと同じだというのである。
 
 聞いてみれば、「なるほど」という話である。こういう風に角度を変えてものを見てみるという発想は重要である。以前、「進化論はとかく誤解されやすい」という記事で、猿が人間に変化するわけではない、ということを論じたことがある。親子の連鎖をプロットしていくと、種がだんだんと変化しているように見えるが、実は変化する主体というものはどこにも存在しない。猿として生まれた個体は猿として一生を過ごし、人間として生まれた個体はやはり人間としての人生を全うするだけのことである。
 
 「木を見て森を見ず」ということわざがあるが、森ばかり見て木のことを忘れても駄目である。一本々々の木を見る視点も大事である。
 
 再度「雲の移動」の話に戻る。森田さんはああ言ったが、哲学者は疑い深いひねくれものである。確かに水滴は不安定でできたり消えたりしているが、水分そのものとして見れば同じものが風に乗って移動しているわけである。やはり、同じ雲が移動していると言っても良いのではないかと私は思うのだが、あなたはどう思いますか?

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答えが分からないのではなく、問題が無いのである。

2020-10-24 17:37:33 | 哲学
 妻が読んでいる本のタイトルを見ると、「どうせ死ぬのになぜ生きる?」となっていた。著者にはそれなりの意図があってそのタイトルを選んだのだと思うし、その本の中にはおそらく意義深いことが書かれているのだとも思う。しかし、ここではそういったことを抜きにして、このタイトルだけに焦点を当ててみると、哲学者としてはちょっと引っかかる点がある。
 まず第一点として、この問いには「永遠に生きるのなら、今生きていることに意義があるだろうけど、どうせ死ぬのなら今生きることに意義などない。」というようなニュアンスが含まれている。しかし、「どうせ死ぬのだから、今はしっかりと生きなければならない。」とも言える。永遠に生きるかどうかということは、今生きることの意義とはあまり関係がなさそうである。
 第二点として、そもそも生きるのに理由や意義を求めることができるだろうかということがある。「なぜ生きる?」ととわれても、へそ曲がりな私は、「理由や目的がなくては生きていたらあかんのか?」と問い返したくなる。

 どんなことがらにでも「なぜ?」という言葉をつけ足せばそれがそのまま問題となる。人間の理性はどんなことにも理由を求めるからである。ちなみに英語では、理性も理由もどちらも "reason” である。「どんなことにもそうなったことの理由がある」という原理を充足理由律と言う。私たちの理性には充足理由律が刷り込まれているのである。だからこそ科学文明が発達したとも言える。科学は充足理由律を前提として構築されているのである。だから、科学の上ではなんでも「なぜ?」ととうことができるし、また問うべきである。「私はなぜ生まれてきたのか?」という問いには、父と母が結ばれたからと答えることができる。しかし、「なぜ生きる?」という問いは科学上の問題ではなく、いつのまにか倫理的な問題にすり替わっている。

 倫理的な価値観というものは、我々が生きていくうえで生まれてくるのであって、生きていることそれ自体は無意味である。「無意味」という言葉がネガティブにひびくなら、ニュートラルとでも言っておこう。「世界がどうしてこのようにあるのか?」という問いには科学上の事であれば、「それはビッグバンから始まった。」とか、さらにはそれ以前へと無限に遡及していくことだろう。しかし、究極的な意味において、「そもそも世界はどうしてあるのか?」とか、「私はなぜ私で、今ここにいるのか?」という問いに解はない。

 だから、「私はなぜ私で、今ここにいるのか?」という問いを発すると、人は実存の不安に襲われる筈である。なぜなら解答が存在しないから。その問いを発するということは、世界の中に自分の位置を確認しようとする行為であるが、無常の世界には確かな座標というものは存在しないからである。問い方を間違えているのである。

 虚心坦懐に反省するなら、私の実存的世界は「私が私であり、今ここに生きている。」というところから始まるのである。それ以前にはなにも存在しない。私が今ここに生きているということだけがこの世界の中の唯一の不動点であり原点なのである。「なぜ私は生きるのか?」というのは、原点を指さして「この原点はどこにあるのか?」とたずねることに等しい。位置というのは原点によって決まるのである。その問いは一体何を問うているかが分からない意味不明な問いである。問は成立していないのである。

京都 思い川 (本文記事とは関係ありません。)
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心はどこにある?-Ⅱ

2020-10-21 09:37:17 | 哲学
 以前、「心はどこにある?」という記事で、次のようなことを述べた。

≪虚心坦懐に反省してみると、パソコンに向かっている時は文字が語りかけてくる。私の思考はディスプレイ上で展開されている。手を伸ばしてものを掴もうとするとき、掴もうと意志しているのは私の手である感じがする。他人と怒鳴りあいをしている時、怒っているのは私の口ではないだろうか。 ≫

 現代哲学ではこういうのを「拡張された心」と称している。書店に行けば、「心は体の外にある」という本も販売されている。脳科学の進歩のせいか、最近では心は頭蓋骨の中にあるとかんがえて信じている人が多いように見受けられる。しかし一昔前、西洋では心臓にあると考えられていたし、日本では肚(はら)にあると考えられていたのである。

 心とは一般に自分自身だと信じられているのではなかろうか? 喜びや悲しみを感じ、美しい景色を見る、痛みを感じる、それらのことはみな自分の心に映じることだと考えられている。しかし、よくよく考えてみれば、その心のありかは実は判然としないのである。親や恋人が死んだら悲しいが、自分の心のどこが悲しいのだろう?  たぶん、どことは言えない。見るものすべて、聞こえる音すべてが悲しみの相貌を備えているはずだ。「私が悲しい時、世界が悲しんでいる。」のである。逆に楽しい時は、公園の花まで笑っているように見える。

 このように心について考えていくと、心と心以外の境界というものがどこにもないということに気づくのである。このような視点は禅仏教にとても親和的である。道元禅師の正法眼蔵の次の一節はご存知の方も多いと思う。

   仏道をならふといふは、自己をならふなり。
   自己をならふといふは、自己を忘るるなり。
   自己を忘るるといふは、万法に証せらるるなり。 
 
「自己を忘れ、万法に証せらる」というのは、心と心以外の境界というものが完全に無くなった状態を言うのである。 心と心以外、自分と自分以外の境界というものがなくなれば、「心」、「自分」という言葉も意味を失う。現代言語学によれば、Aという言葉はAとA以外を区別するためだけのものでしかないからである。差異がなければ言葉もまたあり得ないのである。したがって、万法に証せらるる状態では、無心であり無我というのである。

神鈴の滝遊歩道(山梨県西桂町) 記事内容とは関係ありません。
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天皇は菅首相の任命を拒否すべきではなかったか?

2020-10-04 10:26:15 | 政治・社会
 先日、菅首相は日本学術会議の新会員候補6人の任命を見送った。1983年の「日本学術会議法」改正時の政府の公式見解では、「(推薦された学者を)その通り首相が形式的な発令を行うと、この条文を解釈している。」とされていたにもかかわらずである。

≪内閣法制局によると、日本学術会議法の解釈に関する協議は、内閣府の求めで18年に行われ、今年9月2日にも口頭で解釈を再確認したという。≫(10月3日東京新聞)

しかし、その内容に関する具体的な説明はないというのだから、お話にならない。こんなご都合主義が許されるのなら、天皇が「菅義偉は総理大臣にふさわしくない。」と言って、任命を拒否したって良いという理屈になってしまうのではないか。

 菅首相は実務家だと言われるが、民主主義の理念だとか法の精神とかいう方面にはあまり関心がないのだろうか? 日本学術会議は、学者の立場から政府に対して政策提言する国の特別機関である。政府側が恣意的にメンバーを選べるのなら、政府にとって都合のいい提言ばかりの御用機関になるに決まっている。日本学術会議は権力から独立したものでなければ、その存在意義はないのである。昔の自民党の政治家が立派であったとは言わないが、少なくともみんなその程度のことはわきまえていたのである。

 ところが昨今の反知性主義といわれる政治家は、民主主義の建前を平気で乗り越えてくる。「選挙に勝ちさえすれば何でもできる」というのが彼らの民主主義解釈である。本来の民主主義というのは大衆の連帯でなければならない。選挙の勝ち負けが全てを決定するなら、必ず少数者を切り捨てるという分断が起きる、少数者の意見に耳を傾けるという態度がなければ、民主主義は達成できないのである。

 菅首相には、日本学術会議を政府から独立させておくという度量が欠けている。おそらく実務家首相は、人事権の行使によって人を権力にかしずかせるという快感を覚えてしまったのだろう。こういう総理大臣を頂く国では、人々は理想を抱きにくくなる。すでに日本の官僚機構は忖度だらけ、上の人間の意向を慮るヒラメ人間ばかりになってしまった。そういう組織の中では、「国家公務員は国民全体への奉仕者である。」という本来は当たり前の感覚を持つ人は、うつ病になって自殺するしかない。実際に森友問題では、公文書の改ざんという犯罪を命じられた人が自殺してしまった。しかし、そのことについて誰も事実を告発しようとはしない、人一人が亡くなられたというのにこの異常さは尋常ではない。菅さんは日本全体がそのようになればよいと考えているのだろうか?

 最後に、日本学術会議から除外された宇野重規氏のコメントをご紹介しておく。まことに立派な見識をお持ちの方であるということがうかがえる。
( クリック==>「日本の民主主義、信じる」 )

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