禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

この世界は信じることによって成り立っている (その2)

2024-09-26 10:55:37 | 哲学
 前回記事では科学理論というのは帰納法と演繹法によって組み立てられているというようなことを述べました。確実な事実からの帰納と論理的な演繹からなる科学は正しいもの、そのように18世紀の人々は思っておりました。しかし、イギリスの哲学者(歴史学者でもある)デイヴィッド・ヒュームが、「帰納法は論理的に正しいとは言えない」と言い出したのです。科学というのはいろんな事象を整理して、「こういう場合にはこういうことが起こる」という法則を見出す学問です。具体的に事例から導き出した一般法則を他の事例に適用できるためには、「同じ条件なら同じことが起こる」ということが前提でなければなりません。その前提を自然の斉一性と言います。ウィキペディアには次のように記述されています。

自然の斉一性原理
「自然界で起きる出来事は全くデタラメに生起するわけではなく、何らかの秩序があり、同じような条件のもとでは、同じ現象がくりかえされるはずだ」
 
 この原理があれば、実験室で実験した結果を宇宙ロケットにも適用できるはずです。つまり自然の斉一性を前提とし、「同じような条件のもとでは」の条件選択が適正であれば、その条件下で確認された科学理論は正しいということができます。すべての科学理論は自然の斉一性の前提の上に築き上げられているのです。しかし、問題はこの自然の斉一性原理そのものが私たちの経験事実から帰納されたものだということです。小石を強く投げれば遠くまで飛ぶ、弱く投げれば近くまでしか飛ばない、同じような石を同じように投げれば同じように飛ぶ。このような経験を繰り返すことによって、「同じ条件なら同じことが起こる」というような因果関係がこの自然にはあると私たちは思うようになります。しかし、それはなぜか分からない。私たちの感性はそれを疑いのないものだと感じているが、理性を納得させる理由が存在しないとヒュームは指摘したのです。このことに当時の哲学者は愕然としました。カントはヒュームの言葉によって「独断のまどろみを破られた」と述べています。
 
 たぶんあなたは「ヒュームは一体何を言っているのだ?」と思ったのではないでしょうか?私もそうでした。 しかし、哲学者は論理的にものごとを考える人々です。あらためてヒュームの指摘によって自然の斉一性には論理的根拠がないことに気付かされたのです。つまり、自然の斉一性の正しさというのは主観的な蓋然性でしかないということになってしまったのです。ということは自然の斉一性を前提としている科学そのものの論理的根拠がないということになります。しかし、私たちはこれまで科学によって支えられてきたわけだし、いまさら科学を捨てる気にもなれないし、それを捨てるというのは現実的ではないような気がします。つまり、私たちは論理的根拠がなくとも自然の斉一性を、ひいては科学を信じるしかないし、実際に信じていると思います。

  「科学を論理的根拠なしに信じている」と言われると、なんとなく抵抗を感じる人が多いと思います。科学哲学を少しかじったらしい人の中には、「私たちは自然の斉一説が絶対に正しいと言えないことは承知している。だからそれを前提として仮定しているだけだ。決してあなた(御坊哲)の言うように信じているわけではない。」と主張する人もいます。自然の斉一性は仮定であり、科学理論はすべて反証可能性のある仮説であるから、不都合があれば改訂するだけの話なのだから、論理的には問題ないと言いたいらしい。
 
  科学が自然の斉一性を仮定しているというのは本当のことであり、科学理論が反証可能な仮説であるというのもその通りであります。しかしそのように言っている人が自然の斉一性を信じているのは間違いのないことであると思います。 自然の斉一性が単なる仮定であるならば、誰も宇宙ロケットに乗り込む勇気は持てなくなるでしょう。ロケットを正常に運航するためには膨大な機器が計算通りに正常に動作しなければなりません。器機が計算通りに動くためには「同じ条件なら同じことが起こる」という自然の斉一性が絶対に必要です。宇宙飛行士になるには自然の斉一性に対する信仰が不可欠です。これは宇宙ロケットに限った話ではなく、飛行機でも自動車でも同じことが言えます。日常生活においても、スイッチを入れたらテレビがつく、ガスコンロで料理が作れる等々、あらゆることの因果を当然のごとく私たちは受け止めているはずです。その底には自然の斉一性という支えがあり、無意識の内に私たちはそれを信じているのです。
 
  科学は世界に起こるあらゆる現象の理由を説明しようとするけれど、この世界がなぜそのような世界としてあるのかを説明することはできないのです。私たちはこの世界をこのようなものとして受け入れるしかない。それが信じるということではないかと私は思うのです。
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この世界は信じることによって成り立っている (その1)

2024-09-19 15:46:42 | 哲学
 ある哲学系のSNSで「私たちは科学を(宗教を信じるように)信じている」と述べたら、ほとんどのメンバーから反発を食らってしまった。「信じる」と言う言葉には “根拠なしに゛とか “盲目的に゛というようなニュアンスを感じるのだろう。そういう意味で科学は「信じる」対象以上のものだと感じているのだと思う。しかし、現代哲学では「私たちのほとんどが科学を信じている」ということは常識と言ってもいいほどなのである。

 ここで私が「信じる」と言っているのは、「理性的にはそうではないと疑う余地があるにもかかわらず、感性的にはそうであると認めてしまっている」そういう状態を指します。分かりやすい例えで言うと、あなたが道を歩いている時、一歩一歩踏み進むその足をちゃんと地面が支えてくれると信じているはずです。もしかしたら、その歩道のブロックは張りぼてで落とし穴をカモフラージュしているだけかも知れないとは考えたりしない。そのような可能性をいちいち気にしていたら神経症になってしまうでしょう。あなたは道路の目の前の部分が精巧にカモフラージュされた落とし穴であるかも知れない可能性は全否定はしないはずなのに、そういう不安は全然感じすに安心しながら歩いている。つまりあなたは目の前の道がちゃんとした道であることを信じているわけです。そのように信じる安心感はどこからくるのかというと、長い年月の間道路を安全に歩いてきた実績からきているわけです。ロシアと闘っているウクライナ兵だとそうはいきません。前進するその先の大地にはロシア兵が埋めた地雷があるかも知れないからです。一歩一歩疑心暗鬼で進まなくてはなりません。

 「朝のこない夜はない」 という言葉があります。もしかしたらこのことはあまりにも当たり前すぎて「信じている」ということさえ意識できないかもしれない。しかし、よくよく考えてみれば、私たちの理性はこのことを疑うことができるということが分かるはずです。もしかしたら、光速に近い速度で飛んでいる巨大なエネルギーを持つ粒子が地球にぶつかって破壊してしまうかもしれません。それは絶対にあり得ないことではないのです。それでもやはり、真顔で「明日の朝は来ないかもしれない」などというべきではないでしょう。明日の朝はまず間違いなく来ると私は信じています

 ここで理性が認めることと感性が認める事との違いについて説明しておきましょう。
    大前提:全ての人間は死ぬ。
    小前提:ソクラテスは人間である。
    結論 :ゆえにソクラテスは死ぬ。
上記は誰もが知る三段論法の例ですが、大前提と小前提が正しいなら結論は絶対正しいということは疑いの無いことですね。大前提と小前提が正しいけれど結論が間違っているという事態を私たちは想像することができません。つまり三段論法は私たちの理性を納得させる強制力を持っていることが分かります。三段論法のように理性に沿った思考手順を「論理」と言います。日常会話では論理も理論も同じような意味合いで使用されることがままありますが、理論は論理を組み立てて構成するものです。

 日常会話では、「私はピタゴラスの定理が正しいことを信じる」というようなことはあまり言いません。ピタゴラスの定理は信じようと信じまいと正しいからです。ピタゴラスの定理は正しいことが証明されています。公理を前提として論理を連ねて結論としてのピタゴラスの定理を導き出す、それが証明です。論理は私たちの理性を納得させる強制力を持つので、私たちは証明の結果を受け入れるしかないのです。数学の証明のように論理を連ねることを演繹と言い、演繹によって命題を導き出す方法を演繹法と言います。

 では、科学もすべて論理によって組み立てれば絶対正しいと言えるのではないか? と言いたくなるかもしれませんがそうもいかないのです。数学では勝手に公理を設定し、それを前提として純粋に論理だけで理論を組み立てることがてきますが、現実を扱う科学はそうもいきません。それに演繹法というのは実に当たり前のことを導き出すだけで、前提となる事実以上のゆたかな情報はなんら生み出さないのです。前に挙げた三段論法の例で言うと、結論としての「ソクラテスは死ぬ」ということが分かっていなければ前提としての「すべての人は死ぬ」ということも言えないはずです。演繹法というのは実は私たちの考えを整理するだけの役目しか果たしていないのです。

 現実において有意義な命題はほとんど経験事実からの帰納によって導き出されます。「朝のこない夜はない」 というのは、毎日夜が明けて朝が来るという経験事実から導き出されたものです。経験事実からなんらかの結果としての命題を導き出すことを帰納と言い、そのような方法を帰納法と言います。科学は実験や観察という経験事実から一般法則を導き出す学問ですが、その理論化には数学的な演繹法を用いていますが、そもそも経験事実から出発しているので帰納法も重要な役割を担っています。

(その2に続く)
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禅的現象学 その5 純粋経験とはなにか? その問題点

2024-09-13 16:59:00 | 哲学
  前回記事では、唯一の実在である意識現象が純粋経験であると述べた。しかし、あらためて第一編「純粋経験」を読みだすと多少の戸惑いをおぼえることになる。西田はP.20(※ページ数は岩波文庫版のもの)で次のように述べている。

≪元来経験に内外のべつあるのではない。表象であっても感覚と厳密に結合している時には直に一つの経験である。ただ、これが現在の統一を離れて他の意識と関係する時、もはや現在の経験ではなくして意味となるのである。≫
 
 文中の「統一」を精神統一というふうなニュアンスに受け止める人もいるかもしれない。そうすると純粋経験というのは、いわゆるマインドフルネスの状態における意識状態であるというような解釈に行きつく。おそらく禅を通じて西田哲学に興味を持った人の中にはそういう受け止め方をする人が多いのではないかと思う。しかしここで述べられているのはそういうことではない。もう少しわかりやすく解説してみよう。
 私はうどんが大好きで特に大阪屋という店のうどんが気に入っている。店に入るといつもきつねうどんの大盛りを注文する。うどんが出てくると私は一心不乱に食べ始める。だしのよくきいたおつゆ、その熱さ、うま味、香り、こしのある麵の歯ごたえ、のど越し、これらはみな純粋経験である。食べ終わって私は思わずフーッと息を噴き出し大きな充足感に包まれる。その充足感もまた純粋経験である。そこで一息ついた私は「やっぱり大阪屋のうどんは日本一うまい」と心の中でつぶやくのである。西田はこの「大阪屋のうどんは日本一うまい」が意味であるというのである。

 ここで西田は一つ勘違いをしているように私には思える。「大阪屋のうどんは日本一うまい」は一つの命題であり既に私の意識とは別の独立したものである。だから「意味(命題)」が純粋経験でないというのはその通りとしても、「大阪屋のうどんは日本一うまい」と考えるあるいは思い浮かべることは私の意識現象であり経験でなくてはならない。P.16に「ヴントの如きは経験に基づいて推理させられたる知識をも間接経験と名づけ、物理学、化学などを間接経験の学と称している。」という表現があるが、意識現象を純粋経験としている立場からすればここで言う間接経験は初めから問題にならない。知識はそもそも命題群であり経験そのものではない、それを間接経験というのは日常語としての「経験」の意味に引きずられているような気がする。知識を生み出す思考は経験であっても、知識そのものは意識からすでに独立したものであり経験ではないということをはっきりさせておきたい。その上で第二編第二章「意識現象が唯一の実在である」の次の一文(p.74)を検討してみよう。

≪しかし意識は必ず誰かの意識でなければならぬというのは、単に意識には必ず統一がなければならぬというの意に過ぎない。もしこれ以上に所有者がなければならなぬとの考ならば、そは明らかに独断である。しかるにこの統一作用即ち統覚というのは、類似せる観念感情が中枢となって意識を統一するというまでであって、この意識統一の範囲なる者が、純粋経験の立場より見て、彼我の間に絶対的分別をなすことはできぬ。もし個人的意識において、昨日の意識と今日の意識とが独立の意識でありながら、その同一系統に属するの故をもって一つの意識と考えることができるならば、自他の意識の間にも同一の関係を見出すことができるであろう。

 「純粋経験には所有者がない」とするのはかまわない。実存的視点においては自他というものは存在しないからである。しかし、なんらかの意識現象(純粋経験)について西田の口から語られれたならば、私はそれを西田個人の意識現象(純粋経験)として受け止める。また、昨日の意識と今日の意識とが独立の意識でありながら、それがともに私の意識であると言えるのは「同一系統に属する」からというような曖昧な理由からではない。ちなみに、カントは次のように述べている。

≪『私は考える』ということは、私が心の中で思い描くすべての像に伴うことができるのでなくてはならない。(中山元訳「純粋理性批判」B132 )

 「像」というのはかつては「表象」と訳されていたものである。要するに、自分の意識でとらえたものすべてについて、「私は考える」ということが伴い得るというのである。「伴い得る」というのは、いつもいつも私が前面に出ているわけではないからである。われわれを忘れて友人と殴りあいの喧嘩をしていたということがあるかもしれない。しかし、喧嘩をしていたのは自分であるということは分かっていて、それを反省することができる。それが「『私は考える』ということが伴い得る」という意味である。なにが重要かと言うと、「私は考える」ということを軸に人格の同一性ということが保たれると言っているのである。「同一系統に属する」という理由で、自他の意識の間に同一の関係を見出すことは少々乱暴に過ぎると思うのである。 あくまで純粋経験を云々出来るのは実存的視点においてのみであって、純粋経験について他者と客観的に語り合うことは出来ないのである。他人が「痛いっ!」と叫んだとしても、私にはその痛みそのものを純粋経験として受け止めることはできない。その時の私には、他人の痛みを想像する痛みとその人に共感する思いが純粋経験として有るのみである。

 禅では自他不二ということがよく言われる。これは禅的視点が実存的視点であるからである。実存的視点というのは平たく言えば自分の肉眼からの視点である。見えるものだけを見、感じるものだけを感じる、それ以外のものを見たり感じたりしない。つまり推論や解釈を除外した直接経験だけの視点が実存視点である。自分の眼には自分は写らない。鏡のない世界でそして何も教わらないで育ったなら、自意識というものも産まれないだろう。他者と同じような存在である自分という概念は、他者との言語による交流からの推論の上に初めて立ち上がるものである。だから思考による推論や解釈の結果である「意味」というものがない純粋経験の世界には自他は存在しないのである。ところが、なぜか西田は推論や解釈の結果である思想のようなものを純粋経験に含めたがっているように思えるのである。P.101では下記のように述べられている。

≪個人の意識が右にいったように昨日の意識と今日の意識と直に統一せられて一実在をなす如く、我々の一生の意識も同様に一と見做すことができる。この考を推し進めて行く時は、ただに一個人の範囲内ばかりではなく、他人との意識もまた同一の理由によって連結して一と看做すことができる。≫
 
 西田は純粋経験を各人の枠を超越して一つのものとして発展していくものと考えたいようである。まるで手塚治虫の「火の鳥」におけるコスモゾーンを連想させるのであるが、そのような考えが宗教的ロマンチシズムをそそる以上の意義があるのかどうか?  
何度も言うが、思想は推論と解釈による成果物であり西田のいうところの「意味」である。決して純粋経験ではありえない。西田の思想の根底を支える禅仏教から見れば、いかなる思想も空でしかない、決して真理にはなり得ないのである。「意味」である思想を純粋経験の発展形であるととらえた時点で西田現象学は哲学的に破たんしているように私には思える。

西田哲学についてはいつかまた取り上げたいと思いますが、ここで一旦「禅的現象学」は終了致します。
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