前回記事では科学理論というのは帰納法と演繹法によって組み立てられているというようなことを述べました。確実な事実からの帰納と論理的な演繹からなる科学は正しいもの、そのように18世紀の人々は思っておりました。しかし、イギリスの哲学者(歴史学者でもある)デイヴィッド・ヒュームが、「帰納法は論理的に正しいとは言えない」と言い出したのです。科学というのはいろんな事象を整理して、「こういう場合にはこういうことが起こる」という法則を見出す学問です。具体的に事例から導き出した一般法則を他の事例に適用できるためには、「同じ条件なら同じことが起こる」ということが前提でなければなりません。その前提を自然の斉一性と言います。ウィキペディアには次のように記述されています。
≪自然の斉一性原理≫
「自然界で起きる出来事は全くデタラメに生起するわけではなく、何らかの秩序があり、同じような条件のもとでは、同じ現象がくりかえされるはずだ」
この原理があれば、実験室で実験した結果を宇宙ロケットにも適用できるはずです。つまり自然の斉一性を前提とし、「同じような条件のもとでは」の条件選択が適正であれば、その条件下で確認された科学理論は正しいということができます。すべての科学理論は自然の斉一性の前提の上に築き上げられているのです。しかし、問題はこの自然の斉一性原理そのものが私たちの経験事実から帰納されたものだということです。小石を強く投げれば遠くまで飛ぶ、弱く投げれば近くまでしか飛ばない、同じような石を同じように投げれば同じように飛ぶ。このような経験を繰り返すことによって、「同じ条件なら同じことが起こる」というような因果関係がこの自然にはあると私たちは思うようになります。しかし、それはなぜか分からない。私たちの感性はそれを疑いのないものだと感じているが、理性を納得させる理由が存在しないとヒュームは指摘したのです。このことに当時の哲学者は愕然としました。カントはヒュームの言葉によって「独断のまどろみを破られた」と述べています。
たぶんあなたは「ヒュームは一体何を言っているのだ?」と思ったのではないでしょうか?私もそうでした。 しかし、哲学者は論理的にものごとを考える人々です。あらためてヒュームの指摘によって自然の斉一性には論理的根拠がないことに気付かされたのです。つまり、自然の斉一性の正しさというのは主観的な蓋然性でしかないということになってしまったのです。ということは自然の斉一性を前提としている科学そのものの論理的根拠がないということになります。しかし、私たちはこれまで科学によって支えられてきたわけだし、いまさら科学を捨てる気にもなれないし、それを捨てるというのは現実的ではないような気がします。つまり、私たちは論理的根拠がなくとも自然の斉一性を、ひいては科学を信じるしかないし、実際に信じていると思います。
「科学を論理的根拠なしに信じている」と言われると、なんとなく抵抗を感じる人が多いと思います。科学哲学を少しかじったらしい人の中には、「私たちは自然の斉一説が絶対に正しいと言えないことは承知している。だからそれを前提として仮定しているだけだ。決してあなた(御坊哲)の言うように信じているわけではない。」と主張する人もいます。自然の斉一性は仮定であり、科学理論はすべて反証可能性のある仮説であるから、不都合があれば改訂するだけの話なのだから、論理的には問題ないと言いたいらしい。
科学が自然の斉一性を仮定しているというのは本当のことであり、科学理論が反証可能な仮説であるというのもその通りであります。しかしそのように言っている人が自然の斉一性を信じているのは間違いのないことであると思います。 自然の斉一性が単なる仮定であるならば、誰も宇宙ロケットに乗り込む勇気は持てなくなるでしょう。ロケットを正常に運航するためには膨大な機器が計算通りに正常に動作しなければなりません。器機が計算通りに動くためには「同じ条件なら同じことが起こる」という自然の斉一性が絶対に必要です。宇宙飛行士になるには自然の斉一性に対する信仰が不可欠です。これは宇宙ロケットに限った話ではなく、飛行機でも自動車でも同じことが言えます。日常生活においても、スイッチを入れたらテレビがつく、ガスコンロで料理が作れる等々、あらゆることの因果を当然のごとく私たちは受け止めているはずです。その底には自然の斉一性という支えがあり、無意識の内に私たちはそれを信じているのです。
科学は世界に起こるあらゆる現象の理由を説明しようとするけれど、この世界がなぜそのような世界としてあるのかを説明することはできないのです。私たちはこの世界をこのようなものとして受け入れるしかない。それが信じるということではないかと私は思うのです。