これはこの世のことならず 死出の山路の裾野なる
さいの河原の物語 聞くにつけても哀れなり
二つや三つや四つ五つ 十にも足らぬおさなごが
父恋し母恋し 恋し恋しと泣く声は
この世の声とは事変わり 悲しさ骨身を通すなり
かのみどりごの所作として 河原の石をとり集め
これにて回向の塔を組む 一重組んでは父のため
二重組んでは母のため 三重組んではふるさとの
兄弟我身と回向して 昼は独りで遊べども
日も入り相いのその頃は 地獄の鬼が現れて
‥‥‥‥( 以下省略 )
地蔵和讃を御詠歌として聞いたことのある人は相当年輩の方だろう。若い方などは地蔵和讃そのものを御存じではないのではないだろうか。
年端もいかぬ子どもが不慮の死を遂げたら、未だなんの功徳も積まぬまま親に先立つという大きな親不幸をなすわけで極楽へ行くことはできない。生前は父母への孝養がかなわなかった子供たちは、その代償として賽の河原で石を積むことになる。その石の塔が自分の背丈の高さにまでなれば、その子の魂は救われるのであるが、毎夜出現する鬼がその石の塔を崩してしまうというお話である。つまり、その子は延々と毎日石を積み続けるという救いがたく哀しいお話である。
少し考えればわかることなのだが、これは仏教の教理とは何の関係もないことである。第一年端もいかない子供の死を本人の責任に帰してその罪とがを負わせるのは屁理屈もいいところで、あえて責任というなら親や社会の方にあるのである。無垢な子供の魂はそのままで天国に行ける、というのが筋であろう。
本当に救われたいのは親の方である。子供を死なせてしまったうしろめたさがある。本来ならもっと楽しい目を見せてやりたかった、幸せに人生を全うさせてやりたかった、せめてあの世では幸せになってほしい、そんな願いがこの唄には込められているのである。
先日「無記」という記事で、お釈迦様はあの世のことについては言及しないということを述べた。この和讃の最初に「これはこの世のことならず」となっているが、完成しない石の塔を延々と積みづけているのは、実は無常の世界に生きる私たちの姿そのものではないのだろうか。地蔵和讃がはるか昔から語り継がれているのはそれなりの普遍性を備えているからに違いない。そう、これは「この世」のことなのである。
先日、恐山を訪れた際にこんなことを考えた‥‥。