もう少し、大森の言葉を引いておこう。
≪ 人生にかけるということは単に予測するだけのことではない。文字通り自分の生活をかけることなのである。単に未来を傍観者風に予測するのではなく、そのように予測された未来に立ち向かう心構えをすることなのである。その予測に付された確率はその構えの姿勢の表現であり覚悟のほどの表現なのである。九分通りこういくだろうと構えて手術をする外科医と、五分五分だと思いながらの外科医はその構えが違うのである。そしてその手術の結果がよい時にせよ悪い時にせよ、この二人の外科医は異なる安堵や異なる弁明をするだろう。賭けた人は否応なく賭けの結果を追う以外にはない。 ≫
しかし、大森は確率の数値は参照された過去の指針の示す値であって、その人の賭けの心構えそれ自身の測定値ではないとも言う。それはそうだろう。成功率が五分五分の手術なら、やってみる価値があると考える外科医もおれば、自分はそんな危険な手術はしないという外科医もいるだろう。
≪ 確率論の指針にせよ、それ以外の指針(勘とか天からの声とか)にせよ、どの指針に導かれるのが最も有利であるか、それは前もって不明なのである。それが明瞭であるならば賭けの必要はない。われわれ今日生きている人間はともかくも今日まで生きて来れるだけの賭けに成功した人間である。適者生存の生き残りなのである。だが明日は? それは明日になってみなければ分からない。 ≫
私達は賭けに成功して生き残ってきた人間であると大森は言うが、もしかしたらそれは単に運が良かっただけかもしれない。また、確率に対する態度の最適解というものがもしあるのなら、私達の状況判断・行動というものは互いにもっと似通ったものになっただろうと考えられるが、そうなっていないのは、人類全体の生存というものを考えた場合、個体ごとの確率に対する態度のバリエーションというものが必要だからかもしれない。
また、ある人はないに等しい確率に期待して宝くじを毎回買い求めるくせに、スマホを操作しながら車の運転をしたりもする(事故に遭う確率は宝くじの一等に当たるよりはるかに高いはず)、というような一見非合理的な判断をする。一般に、ポジティブな事柄における確率は過大視し、ネガティブなものの確率は過小視されがちであることについても、それなりに理由があるのだろう。どうやら、私たちの理性が求める、未来に対処する合理性というものは、それほど単純ではないようだ。