論理学では必然的に正しい命題をトートロジー(恒真式)という。「私は今ここにいる」というのは、誰がいつどこで言ったとしても正しい。私の今いるところを「ここ」というのだから、実は同じ内容を繰り返しているだけである。トートロジーは同義語反復とも言われる。
いつも正しい言葉というのは実は意味のない言葉でもある。試しに、そばにいる人に向って、「私は今ここにいる」と言ってみたらどうだろう。たぶん、「そんなこと言われんでも分かっとる」というような反応が返ってくるだろう。トートロジーは情報としてはなにももたらさないのだ。
「私は今ここにいる」というのは明らかに意味のない言葉だが、それでも人は時々そのように言いたくなる時があるのではなかろうか。意味はなくとも意義がある場合がある。己の実存を強く意識する時、変哲もない世界がこのようであることを再認識する時、人は「私は今ここにいる」と言いたくなるのではなかろうか。それが妙であるということだろう。
「私」、「今」、「ここ」というのは禅の三大キーワードと言ってもいいだろう。この三つの言葉の重なり合うところ、己事究明というのはそこのところを極めようとするのである。それは無意味の極北でもあるから「無」というのである。
( 参考記事 )
久響龍潭
百丈野鴨子
狗子仏性(趙州無字)
( 鎌倉 妙本寺の花海棠 )