禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

神様は世界を創造できるか?

2019-09-21 17:43:34 | 哲学
 ウィトゲンシュタインは「私たちは論理に逆らってものを考えることはできない。」と言っております。というと、「そんな事はない。私はいくらでもでたらめなことを考えることができる。」と言う人がいるかと思います。ここで言う「論理的に考える」というのは、具体的にイメージできるということを意味しています。例えば、「円い三角を描く」という行為を想像することができるでしょうか? 「シルナンガモアットのそよぎは1メートルと5秒の中間です。」 という言葉の意味を想像することができるでしょうか? いわゆる矛盾と言うのも非論理の代表的なものです。あらゆる盾を突き破る矛とあらゆる矛を撥ね返す盾を同時に思い浮かべることができるでしょうか? ことばでは確かにいくらでもでたらめなことが言えます。しかし、それを具体的にイメージできない場合に、非論理的な言葉であると言います。つまり、非論理的な言葉とは、言っている本人自身がなにを意味しているかが分からない、そういう言葉です。

 では、「豚が空を飛ぶ」というのはどうでしょうか? これは非常識ではあっても非論理的ではありません。豚に羽が生えて羽ばたいて行く、あるいは重力を消す能力を持った豚というものを考えても良いでしょう。とにかく豚が空を飛ぶシーンを具体的に思い浮かべることができます。非現実的ではあっても、豚が空を飛ぶ論理的可能性はあります。

 で、ここからが本題ですが、創造神を信仰する宗教では、「神さまが世界を創った」ということになっています。では、神さまが世界を創り出すところを想像できるでしょうか? まず疑問の第一は、神さまが世界を創る以前は何もなかったわけだから、空間も時間も何もないと言うと、一体神さまはどういう状態でどこにいたのだろうという疑問があります。まあその辺は人間の能力では計り知れない、というところなのでしょう。なにを言いたいかと言うと、「神さまが世界を創った」という言葉の意味を誰も分からないということを言いたいのであります。信仰する人を挑発するつもりはありません。分る筈のないことはいくら言葉を尽くしても分からない、という当たり前のことを言いたかったのであります。
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〇〇力とはなにか?

2019-09-20 09:07:12 | 哲学
 近年、「女子力」という奇妙な言葉をよく聞く。意味するところがよく分からないのだ。定義が曖昧でも言葉が流通すると、それなりに言葉の相貌が立ち上がり人それぞれの解釈で通用することになる。この種の「力」の使用法のはじまりは、おそらく明治大学野球部の元監督であった島岡吉郎氏の「人間力」にあるのではないかと思う。 女子力は「女性的魅力」、人間力は「根性」と言ってしまっても良いような気がするが、もっと広範な潜在力というようなものを表現しようという意欲が感じられる。 
 
 そのような曖昧な「力」の使用法が許されるのは、力というものがもともと目に見えないからだろう。意外と思われるかもしれないが、目に見える力というものは存在しないのである。眼に見えるものは現象とか効果と呼ばれている。私たちは、現象があればその背後に力が働いている、と不可避的に考えてしまうのである。その習性こそ人間が科学を発展させてきた原動力であるとも言える。
 
 りんごを空中で手放すと地面に落ちてしまう。昔の人は物は地面の方に行きたがっていると考えた。物は地面の方へ行こうとする力を持っていたと考えていたのである。そして、ニュートンは万有引力というものを考えて、より広範な現象を説明することに成功した。いずれも、物が落ちる背景には力が働いているという点においては同じである。現象の背後に働いている力の性質を突き止めるのが科学であると言っても良いかと思う。
 
 近年、科学と哲学の間には境界というものがないと主張する風潮もあるらしいが、力というものを通してみると、科学と哲学にはやはり違いがあると言わざるを得ないような気がする。力は科学的には実在であるが、哲学的には推論による構成物でしかない。科学者は「万有引力があるからリンゴが落ちる。」と言うが、哲学者は「リンゴが落ちるから、科学者が『万有引力がある。』と言うのだ。」と言うのである。

 では、禅者はどういうのか? たぶん何も言わない。リンゴが落ちる、ただその事実を受け入れるだけである。
 
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仏教徒はナショナリズムを克服しなければならない

2019-09-15 15:30:30 | 政治・社会
 日毎のアクセス件数からして、政治向きの話はここのブログの読者にはあまり歓迎されない、ということは承知している。しかし、昨今の嫌韓ブームについて私はどうしても黙っていられない。

 日頃から「空」だの「無」だのと言っている人は、国とか民族にとらわれてはならないと思う。空思想というのは、すべての概念について突き詰めていけばその本質というものはない、という考え方である。つまり、「日本」というもの、「韓国」というものの本質というものはどこにもない。それは「単なる符牒に過ぎない」ということを徹底して知る、それを無差別智と言うのである。空観は必然的に無差別智につながる。仏教とナショナリズムは相いれないのである。

 「韓国は理不尽な国である」と見下すように言うことになんの益があるだろう。唯一のメリットは「溜飲が下がる」というけち臭い了見にあるのだろう。しかし、こちらが見下せば、相手はこちらを持ち上げてくれるはずなどない。お互いに見下し合う、負のスパイラルに陥るだけのことである。前にも言ったが、隣国が嫌いだからと言って引っ越すわけにはいかないのである。仲良くする方が良いに決まっているのだ。

 前々回の記事でも述べたが、徴用工の賠償請求権は消えていない、というのは衆目の一致するところである。日本の言い分は「半世紀前に当時の朴政権との間で決着済であるからそれは韓国の国内問題である」ということだが、問題はそれで韓国の国民感情が納得するかということである。東アジアの安定のため、アメリカが主導して当時の韓国と日本政府が徴用工の頭越しに決着した経緯がある。韓国の裁判所の判決に対して、日本政府と企業と韓国政府が協力して対処法を模索する姿勢があっても良かったはずである。要は、両国が相和していける道を常に探り続けなくてはならない。状況を少しでも良くするためには相手がどのような態度で出てこようともそうするしかないのである。

 時々、「日本は後進国であったそれは朝鮮半島のインフラストラクチャーを整備してあげた。むしろ韓国は日本に感謝すべきだ。」式のお粗末な議論を展開する人がいるが、それは主に朝鮮人自身の労働力によってなされたことである。多少日本から持ち出されたものがあったとしても、日本はそれ以上の収奪をしていたのであって、なによりも人々の誇りと人権を踏みにじったことは簡単にあがなわれるものではない。

 最近はテレビに出てくる知識人と目される人まで簡単に韓国を批判する。とうとう「韓国いらない」などと言い出すメディアも出てきた。日本にはいわゆる「在日」と韓国籍の人々が50万人も住んでいる。その人々に決して肩身の狭い思いをさせてはならないと思う。彼らも我々とともに日本を担っている広義『日本人』なのだから。
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盲点を見る

2019-09-14 05:49:41 | 雑感
 理科の時間に盲点を見るという実験をやった経験は誰にもあると思う。片目をつむって、目の前に差し出した自分の人差し指を見る。その視点を固定したまま指を外側へ移動させると、自分の指先が見えなくなる一点がある。これはとても不思議な感覚で、私はこの実験で軽いショックを受けたことを覚えている。確かに盲点の部分は見えないのだが、それは「●」のようになっているわけではなく、どう見えないのかが判然としないのである。ショックを受けたというのは、それまで自分の視野というものが完備的であると思っていたからである。もしかしたらこの世界は私の思っていた世界ではないのではないか、そういう思いが頭をよぎった。盲点の実験により、私は「盲点そのものが見えない」ということを知ったのである。

 話は変わるが、一昔前に「ゴーストバスターズ」という映画が流行ったことがある。悪いゴースト(幽霊)を退治するというコメディである。それを見ている自分の中の心の動きに興味深いものがあることを見つけた。ストーリーの中で、ゴーストの存在を信じない警官や政治家がゴーストバスター達の邪魔するのだが、その行為がとても保守的で頑迷な印象をともなっているのである。その頑迷さが非常に愚かで滑稽さを帯びている。しかし、現実に引き返して考えてみるなら、保守的で頑迷と見えた彼らは普段の自分そのものなのである。彼らは少しも愚かではないし滑稽でもない、まともな判断をしているだけである。逆に、「聖なる戦い」に挑んでいるゴーストバスター達こそ、「とんでも」科学にとりつかれた迷惑野郎ということになる。

 しかし、映画を観ている時点では、ゴーストバスターたちの方に感情移入してしまい、彼らのやっていることに対して「聖」性を感じてしまう。どうやら人間には、非常識なことに血道を上げる性質というものが、こころの中のどこかに備わっているらしい。いつの時代にも、ごく少数ではあっても普通の人から見れば馬鹿げたことに情熱を燃やす人々がいて、そのことが人類の画一化を防いでいるのではないかというような気もしてくるのである。
 
 常識的な世界は一見完備的に見えても、どこかに盲点があるかもしれないと考えれば、そのようなことにも合点がいくのではないだろうか。
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無とは何か? (その5)

2019-09-12 11:20:02 | 哲学
 約半世紀前のこと、紀州興国寺の師家である目黒絶海老師に、「無とは一体何ですか?」と訊ねたことがある。その時、老師は「究極の主体性じゃ。」と答えられた。もちろんその頃の私にそれがどう意味か分かるわけもない。「究極の主体性って、やる気満々というような意味やろか?」とまるで見当はずれなことを考えていた。
 今考えてみれば、絶対理解できるわけのない説明をどうして私にしてくれたのか分からない。それも「主体性」などという哲学臭のする言葉で‥。当時の師家の振る舞いからは外れているような気がする。が、続けてこうも言われた。「言葉で言うと簡単じゃが、なまなかのことではわからん。地獄の窯の淵を覗いてくるんじゃな。」

 禅の第一目標は己自究明であると言われる。「自分とは何者か?」ということである。私はアマチュア哲学者で、ペンネームを御坊哲と言い、毎日ブログを書いている‥‥。そういう意味の「自分とはなにか?」ではない。私は勝手にアマチュア哲学者を名乗っているだけのことで、哲学をやっていてもてなくても私は私である。御坊哲というのも仮の名前に過ぎない。戸籍上の名前だって別にほかの名前でもよかったのである。それらは私にとってどれも本質的ではない、偶然的に私に結び付いたものに過ぎないからである。

 では、思想や記憶はどうだろう? もし私が大やけどをして姿形が変わったとしても、会話を重ねていくうちに私の妻や友人は私を私と認めてくれるのではないだろうか? 人間の脳の中の状態をすべて再現できるほど科学が進歩したと仮定してみよう。私が交通事故で不慮の死を遂げたとする。私の脳をシミュレートするチップにあらかじめコピーしておいた私の記憶を入れ、それを私の姿そっくりのアンドロイドに装てんする。そうするとアンドロイドは私として振る舞い始めるだろう。私の妻も友人もアンドロイドを私(御坊哲)として受け入れるに違いない。アンドロイド本人(?)も自分自身が御坊哲であることを確信している。なにしろ、幼稚園からの帰り道でウンコをちびった恥ずかしい思い出も、妻との恋愛のいきさつも全部覚えているのである。

 ここまで来れば、思想や記憶を私の本質と言ってしまっても誰からも異論が出ないような気がしてこないだろうか?

 たった一人異論を唱えるのは私自身である。このケースでは私が不慮の死を遂げたことになっているが、私が死なないまま私のアンドロイドを作ったとすればそのことがはっきりする。生身の私にとってはアンドロイドがいくら私そっくりでも、私に似ている別人に他ならない。いくら考えが似ていると言っても、私の意識はアンドロイドの意識の中には入り込めない。この世界はあくまでほかならぬ「私の世界」として開けている。見えているものはすべて私の目に見えている、アンドロイドの眼からではない。

 このことから言えるのは、私に付随している対象化できるものをすべて集めても私にはならないということである。では何が私を私たらしめているのか?
対象化できるものをすべて取り去ったら、それは「無」と言うしかないだろう、というのが結論である。

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