禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

仏教的諦観

2016-10-28 17:36:30 | 仏教

前回記事で取り上げた平家物語の冒頭部分の「盛者必衰の理をあらわす」という表現には、世間とはこれこれこういうものだよ、というような傍観者的なニュアンスがあります。一般的に日本文学における無常は、西行などに見られるように、無常をはかなんで出世間した視点から詠嘆的に描かれることが多いように思います。仏教は常に我々のリアルな実存を問題にしているのですから、自分自身が無常のど真ん中に居ることを意識しなければ意味がありません。

釈尊はその上で無常の世界をそのまま受け入れよと説きます。このことの意味を悟るのはなかなか難しい。我々はついつい必然の世界に生きていると錯覚してものごとに執着してしまうからです。なぜ自分は金持ちでないのか? なぜ自分の好きな異性が自分を好きになってくれないのか? 日本ハムの大谷選手のように投手として超一流なだけでなく打者としての天分にも恵まれている、おまけに男前でスタイルもいい、そんな人が居るかと思えば、私のように無芸でむさくるしい男もいる。考えてみれば不条理なことでありますが、それはいかんともすることはできないのです。

キサー・ゴータミーという女性がわが子をなくして悲しんでいました。あまりにかわいい子だったのでその母親はわが子の死を受け入れることが出来ませんでした。そこへ釈尊が通りかかったのです。母親は釈尊に何とか息子を生き返らせてほしいと嘆願します。釈尊は「身内からひとりも死者を出したことのない家から白いけしの実をもらって飲ませなさい。そうすればその子は生き返るでしょう。」と答えたのです。そしてゴータミーは必死に駆けずり回って、今までに不幸がおとずれなかった家を探します。もちろん、身内から死者を出したことのない家などあるはずもありません。ゴータミーは行く先々でどの家もさまざまに不幸に見舞われていることを知ります。釈尊の元に戻って来た時には、息子の死は受け入れるしかないのだということを悟っていたのです。

よりよい人生を送るために努力するのはもちろんですが、いくら努力してもかなわぬこともあります。かなわなかった場合、私たちはどうしても「本来こうであったはず」という思いに駆られます。しかし、そういう「必然」はないのであります。仏教では超越神を想定しないのですべては偶然的なのです。東日本大震災の際に、「これは天罰である」とある政治家が言いましたが、このような考えは仏教にはなじみません。罰を与えようとする天の意志というものを認めないからです。災害に見舞われた方々は、何か悪いことをしたから罰せられたわけではなく、たまたまそういう目に遭遇しただけです。

自分の境遇をみじめに感じた場合、人はどうしても現実を受け入れることが出来ず、「本来はこうであったはず」という仮定の必然性に執着してしまいます。しかし現実に起きてしまったことはすべて受け入れるしかない。「仮定の必然性」というのは端的に存在しないのであります。このことを本当に理解するのがなかなか難しいのは、人間に知性がありすぎるからでしょう。人間以外の動物はすべて身に降りかかった運命はそのまま引き受けて、必死に生きているわけです。人間だけがいろんな架空の選択肢を比較します。しかし、実のところ架空の選択肢というものは初めから存在しない。現前しているものは究極的な真実であると諦観するしかありません。

諦観というのはネガティブな印象を免れませんが、それはこの世界の再発見でもあります。現前しているものが最終的な真実であると見極めること、それは一つの悟りです。西洋哲学では真理は見かけの世界の背後に隠れているものというニュアンスがありますが、仏教においてはすべてはこの当たり前の世界に現前していると見ます。そのような視点からこの世界を見据えるとそこに玄妙さが見えてくるのであります。「柳は緑花は紅」というのはそのことであります。

栂ノ尾の明恵上人は、あるとき野原に咲いている一輪のすみれを見つけて落涙されたと言います。「この可憐な花を一体だれが咲かせたのか? まさに玄妙である。」
この世界は苦しみと悲しみに満ちているが、無常の世界は奇跡に満ちた世界でもあります。無常の中に妙を見出すのが空観であります。

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空は実体化できない

2016-10-25 11:46:50 | 哲学

あるところで「空」について議論していたのですが、その時に「『色』の本質、すなわち実体が『空』なのです。」というような言葉が出てきました。仏教では「色は空なり」というので、そういう言い方ができるような気がするというのは理解できるのですが、哲学的な述語としての「本質」とか「実体」という言葉は用心して使う必要があります。

「本質」も「実体」も不変のものというニュアンスがあります、他に依存しないで独自に存在しえるものです。大乗仏教ではすべては縁起という関係性によって生じるとされているので、「本質」とか「実体」とかいう概念は排除されます。

そもそも、仏教でいう「空」とは「本質」や「実体」がないという意味です。だとすると、「『色』の本質、すなわち実体が『空』である。」という言い方はとても奇妙なものになります。「『色』の実体は実体がないことである。」つまり「『色』は『実体がない』という実体をもつ。」

私には、「『本質がない』という本質」または「『実体をもたない』という実体」が何を意味するのかが分からないのですが、このような言葉の操作が建設的であるとは思えないのです。「空」を一つの性質として見る視点というものは、やはり龍樹に叱られそうな気がします。何事も徹底性が必要です。空という概念もまた空であります、そこに固定的な性質があると見てはならないと思うのです。

仏教において中道を守るというのは非常に難しいことです。我々の思考は惰性に陥りやすいからです。つい言葉を機械的に運用してしまい、その結果言語に支配され考えが偏ってしまうのです。それを避けるために坐禅はあるのでしょう。

上記の問題とよく似た例で今度は「無常」を取り上げてみましょう。

 祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり
 沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらわす

ご存じ平家物語の冒頭の部分ですが、問題にしたいのは「盛者必衰の理をあらわす」の部分です。仏教における「無常」や「空」は、この世界を支配する超越者がいないというニヒルな世界観からくるものです。だから世界は偶然的であり不規則なのです。「おごった盛者を懲らしめてやろう」というのは人間的価値観です。この世界にはそういったものを調整しようという意志も力も働きません。ある意味「神も仏もない」のが無常の世界の恐ろしさであります。

空であるこの世界には実体がない。実体がないから固定的な形としてはとどまることが出来ない、その変化には差配する主体もないから偶然的である。それが仏教でいう無常です。そこに「盛者必衰の理」などというものがあろうはずはないのです。

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色即是空

2016-10-22 11:57:06 | 哲学

仏教では「色即是空」ということをよく言います。が、しかしこの「空」という文字がもともと空っぽを意味する言葉なので、時には真意が伝わっていないのではないかという気がします。「空」が何か幻のようなもの、というような神秘的なイメージで受け取られているのではないかと感じるのです。

仏教において「空」というときは、何物にも実体がないということを意味します。「実体」というのはちょっと難しいですが、それ独自で存在する絶対的なものを意味します。プラトンの言うイデアのようなものです。

人間は一人一人違っても、みな人間であるとわかります。その理由について、プラトンは一人一人が人間のイデアをもっているからだと言います。人間のイデアはどの個別の人間でもないが絶対不変の範型として形而上の領域に存在する、というのがプラトンの考えです。

一方仏教は、この世界は流動的、偶然的で固定的なものは何もないと考えます。流動的な質料の中で、偶々たんぱく質や遺伝子や生物ができたと考えます。人間もその中でたまたまできたものにすぎません。もし地球上に初めて生まれた人間というものを特定できるなら、その親は人間でないということになります。人間が人間以外からは生まれないのだとしたら、人間は存在しなかったでしょう。つまり人間と人間以外を区別する厳密な境界も定かではないと言いたいのです。たまたまいま生きているよく似たもの同士を互いに「人間」と呼び合っているに過ぎない。

西洋哲学では、「真・善・美」ということをよく言いますが、仏教ではそれも普遍的なものであるとは認めません。一切皆空を標榜する仏教では、いかなる概念の絶対性も認めないのです。当然、究極的な意味においては「善悪」というものもあり得ない、その時代その人の立ち位置によって恣意的に判断しているにすぎない、ということになります。

     「善悪のふたつ総じてもって存知せざるなり」 (歎異抄より)

親鸞にすれば、ものごとを善悪で割り切ることも「有無の邪見」にとらわれていることに他なりません。

なにごとも固定的な概念規定にとらわれない、というのが「色即是空」の趣旨でしょう。「空」とは何もないとか空っぽとかいう意味ではありません。一切皆空であると観じたなら、見たままの世界を既成概念による臆見にとらわれず、ありのままリアルに受け止めるというのが本来の趣旨でしょう。最近は、「『色即是空』もまた空である」というような言い回しをよく聞きますが、一切皆空なのだからそんなことは当たり前であります。しかし、意味も考えずに紋切り型にそのようなことを口走るのはもっともその言葉の精神に背くことでもあります。

固定観念や臆見にとらわれない、というのは言葉でいうのはたやすいですが、並大抵のことではありません。我々の思考は常に概念に頼っているからです。

  「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり 沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらわす」

有名な平家物語の冒頭の部分ですが、無常感を表現しているものとされています。文学的に美しい文章ではありますが、これが仏教的であるかというと異議を唱えたくなります。仏教では、この世界を差配する神というものを想定しないので、その世界観はある意味ニヒルであります。であるから、そこには「盛者必衰の理」などという予定調和もまたあり得ないのです。「無常」は何者の支配も受けず、偶然的で無根拠であるという、冷酷な宇宙観がそこにはあるのです。

釈尊は、その冷酷な宇宙をそのまま受け入れよと説きます。臆見のない目で世界を見つめ、それを受け入れる覚悟ができたなら、そこに妙が生まれるということなのです。

 

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「あるがまま」という言葉について

2016-10-08 13:40:16 | 哲学

禅仏教では「あるがまま」という言葉をよく言います。しかし時々、「ものごとを『ありのまま』に見ることなどできない。」という反論にあうことがあります。我々は感覚を通してものに触れるのであって、その感覚の外にある「ありのまま」の真実には到達できないというのです。

昨夜(10/7)、NHK Eテレの「時空を超えて」というシリーズで「この世界は“現実”なのか?」という番組をみました。その内容は、我々は世界で起きている現象のうち感覚器官で受け止めることのできる情報しか得ることはできない。その限られた情報を脳で加工することによって、再構成されたのが「この世界」であるという趣旨でした。やはり真の「現実」は感覚の向こう側にあり、「ありのまま」の世界を見ることはできないということでした。

「あるがまま」と「ありのまま」の古語的表現で、本来同じ意味のはずですが、ここで使われている「ありのまま」は、仏教でいうところの「あるがまま」とは全く正反対の使われ方をしています。

仏教でいうところの「あるがまま」は、「柳は緑花は紅」というように、体験している世界をそのまま受け止める。再解釈しないという意味であります。禅者にとって世界はその中で生きるものであって、解釈の対象ではないからです。世界は既に成立しかつ現前している、それ以上でもそれ以下でもないのであって、屋上屋を重ねるような解釈は必要ないということです。感覚の向こうに現実があるのではなく、今見ている世界がリアルな現実そのものであるということであります。

「この世界は“現実”なのか?」という問いかけには、我々が見ている世界は脳が作り出した虚像に過ぎないという意味が含まれています。そして、実体の方は我々の感覚の外にある、という構造を設定しているわけです。

仏教における真理観はこれと全く逆で、実在するのは虚像とされたはずのイメージであり、感覚とかその外の実体とかはそのイメージから推論によって構成された科学的枠組みに過ぎないと見るのです。以下に西田幾多郎の言葉を引用します。

≪我々は意識現象と物体現象の二種の経験的事実があるように考えているが、その実はただ一種あるのみである。即ち意識現象あるのみである。物体現象というのはその中で各人に共通で普遍的関係を有する者を抽象したものに過ぎない。≫ (善の研究P.72)

ここで意識現象と言っているのが我々の観ている「世界」のことで、物体現象が感覚の外の「実体」のことである。物体現象は「各人に共通で普遍的関係を有する者を抽象」、つまり整合的な推論によって構成した仮説であると言っているのである。 意識現象が内在的であるのに対して、物体現象は推論による一種の虚構に過ぎない。ここに至って、自然科学と仏教の真理観では、虚と実が入れ替わるのである。

「無門関」の第29則の非風非幡を思い起こしてもらいたい。                         ( ご存じでない方は、こちらをクリックしてください。==>「非風非幡」 )

風にはためいている幡(はた)を見て、ある僧は「あれは幡が動いているのだ。」と言い、もう一人の僧は「違う、風が動いているのだ。」と言う。そのやりとりを聞いていた六祖慧能は「お前たちの心が動いているのだ。」と言った。

幡が動いているあるいは風が動いているというのは、科学的な認識法にこだわるからである。二人とも同じ光景を見、同じ現実認識をもちながら、言葉だけが違う。禅的にはナンセンスである。真実は見たまま、あるがままなのだ。そこに論争すべき問題はない。「心が動いている」というのは、仏教僧としての本分を忘れた論争をたしなめる言葉であっただろう。

関連記事 
  「意識現象が唯一の実在である」
  「天動説でもええやないか
  「やっぱり地動説で行こう
  「『あるがまま』を理詰めで考えてみる

 

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時に人は屁理屈に魅入られる

2016-10-06 11:05:31 | 哲学

ある掲示板で次のような問いかけがなされていた。

≪なぜ人は死ぬのに頑張るのですか?最近死についてずっと考え辛くなり。何とか耐えてさぁ頑張ろうとなると次はなぜ死ぬのに頑張るの?とブレーキがかかってしまいます。  どうせ最終的には努力してきた人もしてこなかった人も何も考えられなくなるのに頑張るのかと言う質問です。これは思春期の悩みによくある事なのか、教えてください。≫

本来、「人間がいずれ死ぬ」ということと、何かに対し「頑張る・努力する」ということの間には何の関係もない。「死んで何もなくなるのだから頑張るのはむなしい。」という言い方ができるなら、「いずれ死んでしまうのだから、生きているうちは精一杯生き抜こう。」という方もできる。どちらもそれなりに一理ありそうな言い分ですが、レトリックの問題であるともいえる。要は屁理屈なのでしょう。

人が頑張るのは欲望があるからで、金持ちになりたい、異性にもてたい、権力者になりたい、ノーベル賞を取りたい、人に認められたい、ただ単に達成感を得たい、人はそのようなものに突き動かされているわけです。それらは人間を超越した視点から観れば、確かに空しいと言えるかもしれない。超越的な視点から眺めれば世界がニヒルであるのは当然です。そこには価値観とか欲望はないからです。

しかし現実存在である私たちは、すでになんらかの価値観や欲望を持っているのですからニヒルな視点に立つのは不自然です。美しくてセクシーな恋人がいて、とても惹かれあっているのにもかかわらず、「どうせ死んだら、こんなの意味ないから別れよう」などと言い出す人はいない。ものすごくお腹がすいているのに、「ご飯を食べてもいずれ死ぬのだから意味ない。食べないでおこう。」などと言い出したらなんらかの病気を疑うべきでしょう。

冒頭の質問者もおそらく何らかの屈託を抱えているのでしょう。それが一見哲学的な装いの疑問として現れているのだと思います。

明治時代に藤村操という旧制一高の生徒が華厳の滝に飛び込んだという事件があったのですが、滝の傍らの木の幹が削られていて、そこに「巌頭之感」と題する辞世の詩が記されていました。

≪悠々たる哉天壤、遼々たる哉古今、五尺の小躯を以て此大をはからむとす。ホレーショの哲學竟に何等のオーソリチィーを價するものぞ。萬有の眞相は唯だ一言にして悉す、曰く、「不可解」。我この恨を懐いて煩悶、終に死を決するに至る。既に巌頭に立つに及んで、胸中何等の不安あるなし。始めて知る、大なる悲觀は大なる樂觀に一致するを。≫

萬有の眞相が不可解であることと投身自殺は本来何の関係もないはずなのだけれど、煩悶する若者はどうしてもそこに行き着く。惜しむらくは若者の悩みを受け止めてやる大人がそばにいなかったことでしょう。

萬有の眞相が不可解であることはいわば当たり前なのに、必然のとりこになったている現代人は、理由のない実存に不安を感じるのです。その結果奇妙なへ理屈に取り込まれてしまいます。「大なる悲觀は大なる樂觀に一致する」ことを知ったのなら別に死ぬことも無い訳なのに、なぜか意識はネガティブな方を選んでしまう。が、しかし実はそこに整合的な論理はないことを分かってほしかったと思います。不自然な理屈にとらわれることなく、自身の胸の内の本音に耳を傾けてほしい。

この世界が不可解であることの不安は、我々が無意識のうちに充足理由率を原理として受け入れていることから来ています。充足理由率とは「どんなことにも、そうであって、別様ではないことの、十分な理由がある」ということです。それを原理として受け入れるなら、どうしても究極的な理由を求める形而上の欲求から逃れられなくなるわけです。早い話、深刻に考えなければそこに何の問題もないのですから考えなければよい訳です。仏教ではそれに近いことを言っています。釈尊は形而上の問題にとらわれることなくこの世界をそのまま受け入れよと言います。それが仏教的諦観ということであります。

どうしても充足理由率の呪縛から逃れられない場合には、ユダヤ・キリスト教におけるような創世神を信じて、すべては神の意志であることを信じるという道もあります。


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