あるところで、「空間中の一点を特定できるか」ということが話題になった。私が「それはできない」と言うと、ある人が「経度と緯度と高さによって表現できる」と言う。なるほど、一見それは正しいような気がするが、地球は猛烈な速度で自転しており公転もしている。さらに言えば太陽系自体が移動していると考えられる。なかなか空中の点を特定するのは困難なのだ。
しかし、その人は「現代の科学をもってすれば、そのような運動も時間の関数によって表現できる。空間の点を把握することはできない話ではない」と言う。
ダメなのである。仏教は、この世界に絶対性や固定性は存在しないと説く。空間の点を座標によって表現しようとした時点で、それは相対的なものであることに気がつかなくてはならない。絶対空間というものがないのなら、座標の起点となる原点そのものが空間にはないのである。
経度はイギリスのグリニッジ天文台を基準に、緯度は赤道を基準に定められている。地球上のあらゆる地点は、経度と緯度によって「厳密」に規定されている。しかし、その厳密さというのも相対的なものであって、あくまでそれは我々人間の主観に過ぎない。
先に述べたように、仏教は絶対性というものは認めない。すべては無常であり変化している。個物というものはその変化の中で比較的安定しているかのように見えるものに過ぎないのである。人間的なスケールで見ると、この地球は盤石であるかのように見える。しかし、歴史の時間を早回しで見ると、地球も水の中のうたかたのようなものに過ぎない。地球上の大陸もいまだに移動しているのである。いかなるものも過渡的なものに過ぎない。
大陸が移動しているとしても、われわれの尺度化すればそれは微細であるから、われわれはグリニッジ天文台を疑似原点として差し支えない。地球自体が高速で移動しているとしても、われわれに近接するものは同様に移動しており、相対的な位置関係は変わらないからである。
しかし例えば、2017年7月27日午前10時の御坊哲の位置を、何十億光年かなたの高度な知性を持つ生命体に知らせるにはどうしたらよいだろうかと考えるとき、非常な困惑を感じざるを得ない。位置というものは相対的にしか表現できないことに気づかざるを得ないからである。
地球は太陽系の第7番惑星であると言っても、その太陽がどこにあるのかを伝えねばならない。太陽は銀河系にあって、アンドロメダ星雲からはどの角度、とか表現しても、銀河やアンドロメダ星雲を特定するためには、さらに何かを基準にしなければならないことに気がつく。時間についてもまたしかりである。西暦はキリストの生誕年を基準としているらしいが、では、そのキリストがいつ生まれたか? それを西暦で表示するしかないとしたら、説明は循環しているのである。
すべては相対的と言うしかない。
旧島々駅舎 (長野県松本市)