禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

なんでそうなるの?

2025-02-01 15:14:16 | いちゃもん
以下、yahooニュースより引用
≪外務省は29日、国連の女性差別撤廃委員会が昨年10月、男系男子に皇位継承を限る皇室典範の改正を勧告したことへの対抗措置を発表した。同委員会の事務を担う国連人権高等弁務官事務所(OHCHR)に支払っている日本の任意拠出金の使途から同委員会を除外する内容で、外務省によると異例の措置となる。今月27日に同委員会側に伝達した。 
 
 日本はかつて国連中心主義を標榜していたはず。それがちょっと自分の意にそわない勧告をされたからと言って、「もうカネは出したらんぞ」と威張ってみせる。まるでWHOへの拠出金を止めると言ったトランプが日本政府に乗り移ったようだ。品位がなさすぎて、実に恥ずかしくて嘆かわしい。

 日本の皇位継承が男子に限られるていること、それが外国から見れば男女不平等に見える、そういうことはきちんと頭に入れておかなければならない、その上で反論があれば反論すれば良い。国連人権高等弁務官事務所(OHCHR)は世界中に人権感覚を敷衍するためには絶対必要な組織であり、気に入らないから金は出さないというのはお門違いもいいとこである。日本は食料さえ自給できないちっぽけな島国であるのだから、国際協調には特に注力しなければならない。国連には進んで協力させていただくという気持ちを常に持ち続けるべきだと思う。トランプの真似したらあかん。

 ちなみに、私は皇室典範などどうでもよいと思っている。個人的には、天皇制そのものが人権という視点から外れていると思うからである。
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他人をさしたる根拠もなく誹謗中傷する自由などない、ましてやそれが正義などということはない

2024-03-31 06:05:05 | いちゃもん
 昨夜のTBS「報道特集」を見て、「ああこれは物議をかもすにちがいない」と思った。既にご存じの方も多いかと思うが、イギリスのBBCのジャニーズ性加害問題第二弾における、東山紀之氏のインタビューの内容である。

 ジャニー喜多川氏による性被害を訴えた男性が誹謗中傷で自死した件についてその妻は、「旧ジャニーズ事務所が『虚偽のケースがある』と発表した後から誹謗中傷が増えた」とBBCの取材記者に訴えた。彼女によれば、殺害予告を受けたり、家族の情報をネット上にさらされたりもしたそうである。(旧ジャニーズ事務所の発した)メッセージが中傷を助長したのではないかという指摘に対して、東山氏は「僕はそのように感じていません。言論の自由もあると思うんですよね。ぼくは別に誹謗中傷を推奨しているわけではなくたぶんその人にとってはそれが正義なんだろうと‥」と答えている。
 
 東山さんは一流の芸能人である。子どもの頃から歌や踊りのレッスンに忙しくて、公教育を十分受けられなかったという事情は理解できる。しかし、ここで「言論の自由」とか「正義」はなかろうと思うのである。あまりと言えばあまりにお粗末な発言である。なまじ俳優であるために堂々とそれらしく喋っているので、その発言内容の空疎さが際立っている。
 
 性加害と言うのは大抵密室で起こる。100%の事実を求めるのは無理である。被害の申請が虚偽である可能性も十分にあり得る。そんなことは初めから分かっていることではなかったか。ことさら「虚偽の申請もある」などとアナウンスするのがおかしいのである。スマイルアップ側に求められる態度は、虚偽申請者を排除することよりも被害を被った人々をもれなく救済することの方に軸足を置くことべきだろう。
 
 さらに記者から(ジャニー氏以外の)別の2人のスタッフ(そのうちの一人は東山氏のマネジャー)による性加害を指摘されると、東山社長はそれを認めたが、記者の「あなたたちから警察にその情報を提供すべきでは」という問いには、「法的なことを考えると僕らには権限がないと思いますので、その当事者の人たちがそれに対して刑事告訴したら僕らとしたら全面的に協力することにはなると思います。」 

 なぜここで「法的な‥‥権限がない」などという言葉が出てくるのだろう。性被害者救済のための責任者という彼の立場なら、法的権限はなくとも道義的義務があるのではないか? もっと言うなら、このことは性加害というれっきとした犯罪であり、普通の一市民としてでも積極的に警察に協力すべき性質の事柄である。
 
 どう考えても東山さんが自分の置かれたポストの社会的責任を認識しているとは思えない。俳優だからそれらしく振舞うことは出来る、しかし中身が備わっていないというかあまりにもお粗末すぎて話にならない。こんなものが世界中に配信されてると思うと日本人としてとても恥ずかしい思いがする。
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高額で契約するということがそんなに素晴らしいことなのか?

2023-12-11 17:45:54 | いちゃもん
 大谷選手が10年間で7億ドルというでドジャースと契約したらしい。日本円に換算すると年俸100億円という途方もない金額が10年間保証されたのだという。日本のメディアを通して見ると、みなわがことのようにそのことを喜びそして誇りに思っているように見える。しかし、私にはそれがそんなに素晴らしいことだとはどうしても思えないのである。決して大谷選手が嫌いなわけではない。私もこの好青年が大活躍すると嬉しいというファンの一人である。しかし、共稼ぎの主婦がパートで時給1000円前後で生活の為に必死に働いている一方で、青年が好きな野球をやっているだけで1年間に100億円も稼ぐ、ということに私はどうしても引っ掛かりを感じてしまうのである。プロフェッショナルな選手として一つのことに全精力を注ぎむ、それはとても価値のあることだし、我々がそのことに対してリスペクトするのは当然のことだと思う。しかし、私はそのことが直ちに労働価値として金額に換算されてしまうということに疑問を持つのである。アスリートにとって競技は神聖なものであって、金額と交換可能なものでは決してない。「年俸100億円なら頑張るけれど10億円ならそれほどモチベーションが上がらない」などという選手がいる筈はない。アスリートはただひたすら自己実現のためにプレイに精進する、だからこそスポーツは尊いのである。

 もちろんドジャースがそれだけの大金を出すのは大谷選手にそれに見合うだけの商品価値があるからだろう。大谷選手が活躍すればますますドジャースの人気は高まり、関連グッズはたくさん売れるし、球場の入場料や広告のスポンサー料も高く売れるだろう。しかし、ドジャースタジアムの入場料(クリック==>「ドジャース 観戦チケットの料金相場」)は既に今でも十分高価で、家族総出で気軽に観戦というようなレベルではないような気がする。スポーツ用品メーカーはもちろんのこと化粧品メーカーまで高いスポンサー料を払ってアスリートを囲い込もうと血道をあげる。 製品の品質改良にコストをかける以上に、人気スポーツ選手を使って商品イメージを高める方が手っ取り早く儲かるからだ。メジャーリーグ・ベースボールに限らず、現在のスポーツビジネスは全般的にコマーシャリズムに毒され過ぎているような気がする。
 
 ここで仮定の話をする。大谷選手が年俸100億円ではなくて20億円で納得したとして、そしてその差額の80億円がドジャーズの観戦客の入場料に還元されたならばどうなるか計算してみよう。年間約160試合して計算すると、1試合当たりの還元額は5000万円になる。そして1試合の入場者数を5万人とすれば、一人当たりのチケット代は1000円安くできるのである。大谷ほどではなくても、ドジャーズには年俸1000万ドル以上の選手が10人以上いる。アスリートだって、努力に応じてある程度は金銭的に恵まれてもよいと思う。しかし、経済的に裕福になればなるほどスポーツのレベルが向上するかと言えば、全然そんなことはないと思う。スポーツそのものを興隆させるためには、一部の選手の給料を押し上げるよりも有効な資金の使い道はほかにいくらでもあるような気がする。けち臭い貧乏人の私は腹の底からそう思うのである。
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「後悔したこと後悔する」とはどんな意味?

2023-05-08 18:12:35 | いちゃもん
 私は若い頃人生幸朗と生恵幸子師匠の夫婦漫才が好きで、よくラジオでそれを聞いていた。いわゆるボヤキ漫才というやつで、ネタはたいてい流行歌の歌詞に関するものである。何ということはない歌の文句をとりあげて、屁理屈をこねていちゃもんを付ける。そういう芸風である。「『君の瞳は百万ボルト』やて? なんやそれ。目の玉は電球ちゃうぞ!」と怒り出し、終いには「責任者出て来いっ!」と切れまくるという塩梅である。

 人生幸朗師匠の影響もあってかどうかは知らないが、実は私も流行歌を聴いていて時々いちゃもんをつけたくなることがよくある。私はちょっと言葉についてはうるさい。なんか適当に言葉ならべてるだけじゃないのかと言いたくなるのである。

 〽もし今日を逃し 後悔すれば
 〽後悔したこと 後悔する
 〽後悔したくないんだったら
 〽後悔なんかするな

 若い歌手が歌っているその歌詞の中にその文言があったのであるが、聞いた瞬間一体何のことだか意味が分からなくて軽いめまいがした。果たして人は「後悔したことを後悔」したりするものだろうか。避けようと思えば避ける事が出来たはずの残念な結果を招いてしまった、後悔というのはそういう時に起きるネガティブな感情である。あくまで自然な感情であり、自分の意志で後悔することそのものを選択するわけではないので、後悔したことを後悔することは普通はあまりないはずである。あえてそういうケースを揚げるなら、後悔の念が強すぎて落ち込んでいる間にいろんな機会を逃してしまった、そういう場合には「あの時あんなに落ち込んでばかりいるんじゃなかった」と後悔するということはあるかも知れない。しかし、そんな意味でこのフレーズを使っているのなら流行歌の歌詞としてはいささかセンスに欠けるというものだろう。

 もしかしたら作詞者は「後悔したこと後悔する」というフレーズを自己言及文として、純然たる言葉遊びのつもりで書いたのかも知れない。しかし言葉遊びなら言葉遊びと分かるようにしておかねばならないし、これは自己言及文でもない。前述したように「ネガティブになったそのことを再び後悔する」という意味に読めるからだ。中途半端なあざとさがこの歌をダサいものにしていると私は感じた。おざなりの言葉ならべただけでは決して芸術にはならないのである。

 ちなみに、後悔はしなくてもよいと思うが反省は必要だと思う。

「後悔しない航海」
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大谷は確かに素晴らしいが‥‥

2023-03-25 14:06:50 | いちゃもん
 WBCの最終戦の最後、大谷とトラウトの一騎打ちはとても見ごたえのあるものだった。クローズアップされた大谷の表情からその息遣いが伝わってくる。文字通り息詰まるような瞬間だった。トラウトを三振に打ち取ったときの大谷の感情の爆発を見て、彼の勝負に対する執念と野球に対する情熱を誰もが見た、そして誰もが心を震わせたはずだ。それがスポーツの素晴らしさである。

 しかし、私は以前からこのWBCに対しては懐疑的である。というのは、この大会がもともとMLB(メジャーリーグ)のビジネスであり、それも日本向けビジネスとして設計されたものであるからである。主なスポンサーがほとんど日本企業であるのに、収益の7割がMLBの懐に入るという、とてもいびつなシステムになっている。アメリカの企業にはスポンサーとして参加させない。アメリカの企業にはあくまでメジャーのシーズンのスポンサーとして参加してもらい、その収益を独占したいからである。

 日本側ではWBCを「世界一決定戦」などと息巻いているが、アメリカ側ではあくまで最も権威があるのはワールドシリーズであり、WBCは単なる金儲けビジネスに過ぎない。だから、日本や他のアジアの国からはほぼベストメンバーを派遣するが、肝心のメジャーは本気で選手を選抜しない。今年はトラウトなどの声掛けにより、野手の方はスーパースターが参加したが、マックス・シャーザー やゲリット・コールというようなエリートピッチャーは参加していない。平たい言い方をすれば、WBCの試合結果もメジャーのオープン戦の試合結果のニュースの中に埋もれてしまう程度のようなものである。

 そもそもWBCのゲームをテレビで視聴しているアメリカ人は、日本に比べてかなり少ない。今回のWBC決勝は全米で500万人が視聴したと言われている。人口が日本の約3倍のアメリカでの500万人である。日本の視聴率は午前中の放送であったにもかかわらず40%を超していたというから、何千万もの人々が見たに違いない。それに比べればアメリカの視聴率は低いと言わざるを得ない。しかし、このアメリカの「500万人」という視聴者数はそれでも破格なのである。今までの最高視聴者数は2017年決勝「米国対プエルトリコ」の305万人だったというから、一挙に6割以上も増加したことになる。おそらく、トラウトや大谷のようなアメリカ人にとってもスーパースターと言うべき選手が参加したことが大きかったのだろう。
 
 アメリカで人気がそれほどないものを日本人がもてはやすことが悪いと言いたいわけではない。WBCというのはビジネスモデルとしてかなり歪んでいると言いたいのである。スポーツにかかわるビジネスというのはフェアーなものであってほしいと願っているからこのようなことを言うのである。

 それともう一つ言いたいのは、WBCが終わって3日も経ったのに、未だにテレビでは同じビデオを繰り返し放映しているということである。自国のチームが優勝して嬉しいというのは自然の情であるが、ものには程度というものがあるし、決してナショナリスティックになってはならないと思う。オーストラリア代表が「日本のホスピタリティは素晴らしい」とかチェコ代表が「日本をリスペクトする」だとか「【WBC】優勝した日本の“ゴミ一つないベンチ”に世界が注目『賞賛すべきチーム』『感銘を受けた』」とか、他国の日本に関する報道内容を、日本国内でより一層繰り返し増幅するのは如何なものか。せっかくほめていただいたのに、まるで自画自賛である。褒められたら、その好意に対して感謝する、それだけのことにとどめておくべきである。現在のマスコミの狂騒は品位に欠けると思うのは私だけだろうか。
 
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