昨日から「西野監督はすごい」という声を何度となく耳にする。私も確かにすごいという気がする。もし、セネガルが最後の10分間で一点入れていれば、西野監督への批判は尋常のものではなかっただろう。しかし、彼はセネガルが得点できないことに賭けた。確かにセネガルが点を取る確率はそんなに高くなかったかもしれないが、それは誰にもわからないことである。賭けに負ければボロクソに叩かれる、そのリスクは決して小さくない。なかなか常人には決断できない賭けであったと思う。そういう意味で西野氏はすごいのである。
スポーツというのはひたむきに勝利を追及する競技者とそれを観戦する人々から成り立っている。会場にいたのは日本人サポーターだけではない。ロシアやその他の国々から大勢の人々が詰めかけていた。熱戦を期待して観に行った人々こそいい面の皮である。その胸中は決して晴れやかではなかっただろう。何万もの観客の期待よりも決勝トーナメント出場を重要視して、そういう決断ができる。そういう意味でも西野氏はすごいと言える。
西野氏の判断の善し悪しはともかくとしても、とにかく彼は主体的に判断しリスクをとって決断している人である。私が問題にしたいのは、彼を称賛している人々である。もし、セネガルが最後の最後に一点をもぎ取って、日本の一次リーグ敗退が決定していたとしても、「決勝トーナメントへ出場するためには、彼の下した判断は間違っていなかった。」と言えるかどうかである。その場合には、懸命に戦って一点をもぎ取ったセネガルに対して、セネガルの負けに賭けて試合を壊した日本が一次リーグ敗退。あまりにもいじましくて無残でこっけいな姿が浮き彫りになってしまっただろう。その場合には、今西野氏を称賛している人々のうちの少なくない数が、正反対の評価を下していただろうと私は邪推(?)しているのである。
そういう人たちに私は問たい。「あなたは主体的に判断していますか?」と。ただ、あなたの判断というものが、日本チームの努力とは何の関係もない他チームの試合の結果に乗っかっているだけならば、それは判断でも何でもない。あなたは主体を失っている。
リードされているにもかかわらず、点を取りに行けばカウンターで点を取られる可能性の方が大きいから攻めない、などという自己否定的なチームが決勝トーナンメントへ行く価値があるとは思えない。最後まで果敢に戦ったセネガルが勝ち残るべきであったと私は考える。
先日の記事、【南師曰く、『仏教の要諦は、無常・無我・空・無記である』】 において、私は「仏典は指針ではあっても絶対ではない。仏教の原理になじまない教説は受け入れるべきではない」と述べたのであるが、それに対しあるところから、「あなたは自分に都合のいいところだけ信じるのか?」という問いかけを頂いた。
「都合のいいところだけ」という言葉に多少引っ掛かるが、まあ大体その通りである。端的に言って、誰もがそうしている。「それは間違っている」と思いながら信じることなど誰にもできそうにない。仏教で重要な概念は「無常、無我、空、無記」である。その原理原則は仏典よりも優先されるべきであると私は考える。それに従えば輪廻思想は受け入れがたい、ただそれだけのことである。
仏典の全てをそのまま信じることなど到底できない、取捨選択があるから様々な宗派が生まれるわけである。日蓮ならば法華経、浄土系ならば浄土三部経を重要視するが、それ以外の経典はさほど重要視しない。親鸞聖人は自分の考えに沿って経典の(学者によれば、意図的な)誤読まで行っているとされている。
だからと言って、「親鸞の教えは仏教ではない」というようなことは言われない。彼ほど「無常、無我、空、無記」を理解している人はそういないからである。
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「鳥が飛んでいる」と言ってみると、何かが言えたような気がする。聞いた方も確かになんらかの意味を受け取ったような気がする。しかし、言った本人は、トンビが螺旋を描きながら高く舞い上がっている光景を見ていたのだが、それを聞いた人は雀が枝から枝へ飛んでいる様子を思い浮かべていたのだ。
龍樹は、「一般的な鳥というものは存在しない」し「一般的な飛び方というものも存在しない」と言う。だったら、言語が通じていると思うのは一種の錯覚だろう。
受け手は聞いた言葉から自分の経験を想起しているのだが、それは発語者の意図と受けて自身の想起は全く無関係である。受け手はその言葉から独自に自分自身の経験からイメージを想起するのである。発語と受け手の解釈は明らかに断絶している。
私の観ている赤色は実はあなたの緑色かもしれないというようなことはよく言われることである。しかし、最近の言語哲学ではそんなことを言うのは無意味であるということになっている。
夕日を恋人と眺めながら、あなたは「夕日が赤いね」と言う。恋人は答えて、「そうね本当に赤いわね」と答える。素朴に考えて、この時二人は同じ「赤」を見ていたのである。「赤」という言葉の意味はそういうことだったはずだ。「赤」という言葉に関する二人の振る舞いを見ているかぎりいかなる齟齬も見られない。二人の間に「赤」の同一性を疑わせる要因はどこにもない。
現代言語学では、「赤」という言葉には赤と赤以外を区別する機能しかないという。つまり、「赤」はこの世界を赤と赤以外に分節する。言葉の内容そのものは問題にされていない。あなたと彼女の「赤」の同一性の根拠となるのは、あなたと彼女が持つ、それぞれの分節された言語空間の同型性にしかないのである。ここでは、あなたの意識の中にある赤のクォリアというものは全然問題にされていない。
ここで、私は言いたくなるのである。あなたが「赤」という時、「あなただけが感じることのできる赤の感覚を指示」しているのではないだろうか? また彼女も「赤」という言葉を聞いた時、「彼女だけが感じることのできる赤の感覚を想起」しているのではなかろうか? 実は言葉は通じていない。言語空間の同型性から奇跡的に現象的には通じているように見える、ということもできそうな気がするのである。
「言語というのはすべて私的言語しかない」という言い方はできないだろうか?
このアジサイの映像を言葉で切り取ることができるか?
インターネットのSNS上で「空」について議論しているところがあったので、のぞいてみると次のような文言が目に留まった。
≪ あるとないとは同じことだと、仏教は言います。論理的には同じだと。だから、はじめから空なのだと。≫
この人にはこの人の言いたいことがあるのだろうが、「論理的」には明らかに間違っている。論理というものはあるとないの区別があるところに基盤があるのであって、その区別がないのなら論理の依って立つところはないのである。” 1=0 "を矛盾と言う。矛盾を一つでも許せば、その論理体系は無意味なものとなってしまう。
一部の人々は仏教を神秘的に語りたがる傾向がある。「あるとないとは同じ」というのは味噌も糞も同じと言うに等しい。あまりに大胆な物言いは、仏教を情緒的に解釈しているからではないだろうか、宗教が情緒的であっては良くないという意味ではないが、仏教における哲理というものはアバウトに語るような性質ではないと考える。一切皆空を「すべては空しい」というようなニュアンスで語るのもいかがなものかと思う。「すべてはまぼろしのようなものだから執着する必要はない。」というのもどうだろう? 「執着しない」ということは重要であるが、ありありとした現実を認識しながら、それをまぼろしであるかのごとく語るのはどう考えてもおかしい。
仏教はごまかしの宗教ではない。この世界はリアルである。悲しいものは悲しい、苦しいものは苦しい。それでも執着してはならないと説くのが仏教ではないかと思う。喜びも悲しみもうつろなものと受け止めるのは単なる病気、離人症かもしれない。
大船撮影所跡 (鎌倉市)
無常とは「万物が生滅変化し,常住でないことをいう。」とある。虚心坦懐に世界を見つめればこれは当たり前のことである。それがなぜ恐ろしいか?
なんら固定的なものはないということは、何か形をとどめようという力というものが一切ないということである。すべては偶然であり過渡的かつ完成に向うということも無い。つまり、この世界を差配するものは何もない。それは実は当たり前のことなのだが、実存的な視点からその景色を見た時に恐ろしい様相を呈することになる。なんの根拠もない世界の中に、生身の身体を持ったこの私が存在することの恐ろしさである。
人は天罰を恐れると言うが、この世界が天罰の下るような世界であれば、実はそれほど恐ろしくない。天の意志に従って生きて行けばよいだけのことである。しかし、無常とは従うべき天の意志が存在しないということを意味している。ニーチェは「神は死んだ」と言ったが、仏教的世界には初めから神などいなかったのである。
哲学者の永井均さんが、「無常という概念は平板だ」というようなことを言っているらしいが、それはおそらく文学的無常観と言うべきものについて述べているのである。仏教的無常観は決して平板ではなく、底なしのニヒルとも言うべきものだ。
無常は決して明日の朝が来ることを保障しない。仏教者はそのことを諦観しなくてはならない。その諦観をえられた時、初めて朝の光の絶妙さを知るのである。
尾瀬ヶ原