禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

無常とは世界の無根拠性に気づくこと

2014-03-07 11:18:12 | 仏教

学生時代に「貧しき人々」という小説を読んで非常に感銘を受け、その後立て続けに「罪と罰」、「カラマーゾフ」を呼んだ記憶がある。40年以上も前のことであるから、筋書きはほとんど記憶にないのだが、ドストエフスキーの作品の底を流れているものは、仏教の無常観に通じるものではないかという印象を強く感じた。

時々、キリスト教が分からなければドストエフスキーは理解できない、という人がいる。確かにそういう面もあるだろうが、そんなことはドストエフスキーに限らない、知識はないよりあった方が良いに決まっている。キリスト教に限らず、ロシアの風土についても知っていた方がドストエフスキーを深く味わえるだろう。

しかし、ここであえて言うが、キリスト教が分からなければ理解できないようなものについては別に分からなくともかまわないと私は思う。ドストエフスキーの主たるテーマはそれほど難解なものではない。普遍的なものについて語っているからこそ、彼は偉大な作家なのである。

 「神が創り賜うたこの世界が、なぜこのように不条理であるのか?」

ドストエフスキーが言いたかったことはこの一言に尽きるのではないかと思う。こころ清き人の苦しみがあがなわれることなく、邪悪な人々の快楽が罰せられることもない。この世界はそんなところではないのか?つまり、本当は神などいないのではないか?

信仰するものにとって神の不在を想像することは怖ろしいことだろう。裸のまま暗黒の宇宙に投げだされるようなものである。「キリスト教が分からなければ理解できない」というのは、おそらくそのようなことを指しているのに違いない。

だが、キリスト教徒でなくとも、底なしの虚無は怖ろしいのである。無神論者である私も無意識のうちにこの世界を信じている。つまりある種の信仰を持っているのである。しかし、ときに人はこの世界の無根拠性に気づく、つまりその信仰に疑いを持つのである。それが無常ということである。

「無常」という言葉をウィキペディアで検索すると、「この現象世界のすべてのものは生滅して、とどまること なく常に変移しているということを指す。」とある。しかし、そんなことは当たり前のことである。日本文学においては、無常をただ≪移り変わること≫に重点を置きすぎている。ただそれだけのことなら、あえて強調するべきほどのものではないと私は考える。

無常の本当の意味は「≪ただ因縁にしたがって≫移り変わっているだけのことである」ということである。ここで言う因縁というのは物理法則のことだと受け止めてもらえばいいだろう。つまり世界は「唯物的」であるということなのだ。早く言えば神も仏もない世界であるということである。

「因縁にしたがって移り変わる」というのは、そこに超越者の差配はないということである。もし因縁そのものを超越者と見るならば、その超越者はわれわれの意志など省みるような慈悲を持ち合わせているような存在ではないということである。この世界は、あるいは歴史は、我々の感情など勘案しない、冷酷な歯車の如く回り続ける、というのが無常の本当の意味である。決して詠嘆的なもののあわれを意味する、そんななまやさしい言葉ではないのである。この世界には確かなことは何一つない、われわれの思いや願いを保障してくれるなにものもない、という恐ろしい事実である。

キリスト者にとっての世界の不条理と仏教的無常観はそういう意味において通底しているのである。

この世界の無根拠性を恐れると言う意味では東も西もない。釈尊はこれを無常と言ったが、ドストエフスキーは社会の不条理として描き出した。サルトルは「世界は偶然性の上に成立しているグロテスクなもの」として我々に提示しようとする。

前回の「柳は緑花は紅 」という記事の中で、私は次のように述べた。

世界の無根拠性に気づいた時、我々のとるべき態度は三つある。

   ①そのことを忘れ、気がつかなかったことにする。
   ②そのことを儚く思い不安の中で暮らす。
   ③無根拠性の上に成立しているこの世界の奇跡性に感謝する。

③が仏教の選んだ道であり、この奇跡性を「妙」と呼ぶ。仏教は一旦この世界を否定はしても、最終的には肯定するのである。それが「あるがまま」を受け入れるということである

サルトルがグロテスクと呼んだ「偶然性」を仏教者は「奇跡性」と評価するのである。この奇跡性を仏教では「妙」と呼ぶ。

仏教を論じるときに、「無常」とか「空」という概念はテーマとしてよく取り上げられるが、「妙」という言葉があまりでてこないのはいささか奇異な感じがする。「妙」こそ仏教において最も重要な概念であるからだ。

現代語においては、「奇妙」、「微妙」という言葉はネガティブなニュアンスで使用されることがままあるが、「妙」は本来は否定的な意味を全然含まない言葉である。ただ、傲慢な人や感受性の乏しい人には分かりにくい概念であるため、ある種の神秘性を伴った概念として「微妙」「神妙」「奇妙」「玄妙」というような言葉が生まれたのであろう。

近頃は国際語になろうとしている「もったいない」という言葉も、妙に対して発する言葉である。僧堂では、「水一滴もむだにするな」ということが言われる。水一滴さえも奇跡の結晶であることを忘れてはならないということである。仏道修行というのは妙に対する感受性を磨きあげることといっても過言ではない。

「わび」とか「さび」は日常の中に妙を感得する精神から生まれたものである。豪華絢爛に幻惑されれば妙は感得できないから質素を尊ぶのである。
「柳は緑花は紅」とはこの世界が当たり前の世界であると言っている。しかし、その当たり前が限りなく尊いという意味である。

 

 

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