地下鉄サリン事件から早30年が経過していると知って驚いた。歳をとれば月日の経つのが早いというのは本当のことだと実感した。前代未聞の凶悪な事件により、私達は宗教の持つ恐ろしさについて実感した。とらえられた実行犯はほとんどがこの宗教に関わってさえいなければ善良な市民あったような人ばかりだったからだ。高学歴で「エリート」と言っても良い人も少なくなかった。そして例外なく、熱心な求道者であり"仏道"修行者でもあった。唯一の間違いは師の選び方を間違えたということなのだろう。
昨年天台宗において大僧正が懲戒審理に掛けられたことが話題になった。その大僧正が信頼する住職が長年にわたり尼僧に対して不同意性交を行ってきたことが問題になったのである。大僧正自身が犯行に加わったわけではないが、彼を崇拝していた被害者に対し、「(性行為を行った)住職の言葉を私の言葉だと思って仕えるように」と言って、彼女をその住職にあずけたというのである。被害者は大僧正を雲の上の人として崇めており、その言葉の通りその住職に従っていたのだが、女犯を禁じられているはずの僧が再三自分に対して性行為を強要する。さすがにこれはおかしいとそのことについて大僧正に訴えたが、大僧正は住職の行為を黙認し続けたという。大僧正の内心は分からないが、ことが公になって聖者としての自分の汚点になることを恐れたのでは、と俗人である私などは思うのである。その大僧正は有名な千日回峰行という荒行を成し遂げた「北嶺大行満大阿闍梨」 の一人であるという。不埒な部下の淫行が露見しなければ立派な僧と人々に崇め奉られたまま人生を全うしたはずである。
千日回峰行を成し遂げるということは確かに偉業と言っても良いほどのすごいことである。なまなかの根性で成し遂げられることではない。しかし、偉業と言ってもそれはオリンピックでメダルをとるというのと大して変わらない。根性と体力があれば成し遂げられる可能性はかなり高い。厳しい修行をしたからと言って、世間で起こることがらに正しく対処できる能力が得られるわけではない。自分に対して助けを求めてきた尼僧に対し手を差し伸べることをしなかった、その鈍感さは責められるべきである。
歴史を勉強した人なら血盟団事件というのをご存じだと思う。1932年に右翼的テロリスト集団が起こした連続テロ事件である。その首謀者は井上日召という日蓮宗の僧侶であったが、一時は熱心に禅の修行もしていたらしい。その日召の裁判の際に弁護側の証人となったのが山本玄峰老師である。老師は当時の日本臨済宗の最高指導者であった。玉音放送の「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び」の文言はこの人の発案によるものであった。 その玄峰師は日召に関し次のように述べていることに注目したい。
「(日召は)永年 精神修養をしているが,その中で最も宗教中の本体とする本来の面目,仏教で言 う大円鏡智を端的に悟道している 」
玄峰師の本意が奈辺にあるのかが凡人の私にはよく分からないが、文字通りに受け取れば非常に危険なことを述べているような気がする。大円境地とは文字通り鏡のようにすみ切った一点の曇りもない境地であると思う。日召を自己犠牲を厭わない無私の人と言いたかったのだと思う。日本臨済宗ではことさら自分の身を顧みない武士道的潔さが強調され過ぎるような気がしてならない。おそらくそれは宗門が武士階級によって支えられてきた歴史と無関係ではないと思う。自己犠牲を厭わない献身は美しいが、それが主義主張と結びつくと、仏教的無我や無私とずれてくるように思うのである。まず人を殺すという時点で、釈尊が第一に挙げた不殺生戒を冒してしまう。己を是とし彼を非として抹殺しようとするその時点で既に有無の邪見にとらわれている。龍樹菩薩の説かれる大乗の精神から大きく外れているのではないかと思うのである。
坐禅にはマインドフルネスという効用がある。修行するということは自己暗示をかけ続けるということなのだと思う。正しい心がけで続けていけば素晴らしい効果があると思う。が、常に中庸を求め続けるということがなければ危険だとも思う。