禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

修行すれば立派な人になれるか?

2025-03-25 07:41:25 | 仏教
 地下鉄サリン事件から早30年が経過していると知って驚いた。歳をとれば月日の経つのが早いというのは本当のことだと実感した。前代未聞の凶悪な事件により、私達は宗教の持つ恐ろしさについて実感した。とらえられた実行犯はほとんどがこの宗教に関わってさえいなければ善良な市民あったような人ばかりだったからだ。高学歴で「エリート」と言っても良い人も少なくなかった。そして例外なく、熱心な求道者であり"仏道"修行者でもあった。唯一の間違いは師の選び方を間違えたということなのだろう。

 昨年天台宗において大僧正が懲戒審理に掛けられたことが話題になった。その大僧正が信頼する住職が長年にわたり尼僧に対して不同意性交を行ってきたことが問題になったのである。大僧正自身が犯行に加わったわけではないが、彼を崇拝していた被害者に対し、「(性行為を行った)住職の言葉を私の言葉だと思って仕えるように」と言って、彼女をその住職にあずけたというのである。被害者は大僧正を雲の上の人として崇めており、その言葉の通りその住職に従っていたのだが、女犯を禁じられているはずの僧が再三自分に対して性行為を強要する。さすがにこれはおかしいとそのことについて大僧正に訴えたが、大僧正は住職の行為を黙認し続けたという。大僧正の内心は分からないが、ことが公になって聖者としての自分の汚点になることを恐れたのでは、と俗人である私などは思うのである。その大僧正は有名な千日回峰行という荒行を成し遂げた「北嶺大行満大阿闍梨」 の一人であるという。不埒な部下の淫行が露見しなければ立派な僧と人々に崇め奉られたまま人生を全うしたはずである。
 千日回峰行を成し遂げるということは確かに偉業と言っても良いほどのすごいことである。なまなかの根性で成し遂げられることではない。しかし、偉業と言ってもそれはオリンピックでメダルをとるというのと大して変わらない。根性と体力があれば成し遂げられる可能性はかなり高い。厳しい修行をしたからと言って、世間で起こることがらに正しく対処できる能力が得られるわけではない。自分に対して助けを求めてきた尼僧に対し手を差し伸べることをしなかった、その鈍感さは責められるべきである。

 歴史を勉強した人なら血盟団事件というのをご存じだと思う。1932年に右翼的テロリスト集団が起こした連続テロ事件である。その首謀者は井上日召という日蓮宗の僧侶であったが、一時は熱心に禅の修行もしていたらしい。その日召の裁判の際に弁護側の証人となったのが山本玄峰老師である。老師は当時の日本臨済宗の最高指導者であった。玉音放送の「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び」の文言はこの人の発案によるものであった。 その玄峰師は日召に関し次のように述べていることに注目したい。

「(日召は)永年 精神修養をしているが,その中で最も宗教中の本体とする本来の面目,仏教で言 う大円鏡智を端的に悟道している 」
 
 玄峰師の本意が奈辺にあるのかが凡人の私にはよく分からないが、文字通りに受け取れば非常に危険なことを述べているような気がする。大円境地とは文字通り鏡のようにすみ切った一点の曇りもない境地であると思う。日召を自己犠牲を厭わない無私の人と言いたかったのだと思う。日本臨済宗ではことさら自分の身を顧みない武士道的潔さが強調され過ぎるような気がしてならない。おそらくそれは宗門が武士階級によって支えられてきた歴史と無関係ではないと思う。自己犠牲を厭わない献身は美しいが、それが主義主張と結びつくと、仏教的無我や無私とずれてくるように思うのである。まず人を殺すという時点で、釈尊が第一に挙げた不殺生戒を冒してしまう。己を是とし彼を非として抹殺しようとするその時点で既に有無の邪見にとらわれている。龍樹菩薩の説かれる大乗の精神から大きく外れているのではないかと思うのである。

 坐禅にはマインドフルネスという効用がある。修行するということは自己暗示をかけ続けるということなのだと思う。正しい心がけで続けていけば素晴らしい効果があると思う。が、常に中庸を求め続けるということがなければ危険だとも思う。
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一日作さざれば一日食らわず

2023-08-03 13:35:25 | 仏教
 百丈慧海禅師の有名な言葉である。とても有名な言葉なので、その言葉にまつわる故事は省略する。(その故事についての解説はこちらを参照してください==>「一日作さざれば一日食らわず」
 
 百丈禅師というのは唐代の大禅匠であるが、「百丈清規(しんぎ) 」という禅林の修道生活全般にわたる規範を取り決めた人である。残念ながら百丈清規はその後散逸してしまい、今となってはその全貌を伺うことは出来ないが、現在の僧堂の運用の基礎として残っている。禅林では修行者の日課とその役割が事細かく決められている。各々が自分の役割分担をそれぞれ果たすことによって、はじめて禅林は一個の有機的な集合体として機能するのである。百丈は自立した持続可能な禅林というものを目指していた、千年以上もの昔に今でいうところの「 SDGs 」を意識していたすごい人なのである。

 以上のことを踏まえて、「一日作さざれば一日食らわず」をもう一度考えてみよう。重要なことは「お互いに役割を果たす」というところにあるのではないか。つまり、それはお互いに必要とされているということを意味する。自分に必要とされている役割がある、つまりそれがその人の居場所である。「働かない自分が食事をするのは申し訳ない」という気持ちが百丈にあったのかもしれないが、それだけの解釈にとどまっては不十分だと思う。自分は老人であまり大きな働きはできないかもしれないが、まだまだ畑を耕すくらいのことはできる。老いたりと雖もまだまだ人の役に立ちたい、つまり「一日食らわず」というのは自分の役割を奪わないでほしいというハンガーストライキなのである。

 人は互いに必要とし必要とされる存在である。必要とされることを必要としているし、必要することを必要とされてもいるのである。そこに共感と安寧が生まれるのである。人々が応分の役割を果たせる社会、そういう社会が百丈の理想なのだと思う。残念ながら、資本主義というのは人々に役割を持たせる仕組みとしてはある程度の機能を果たしているが、どうしても利益というものを第一の動機としているため結果的に人間と労働を疎外してしまう。労働を苦役に対する対価としての賃金を得るためのものに貶めてしまった。「働かざるもの食うべからず」という解釈が生じるのはいかにも資本主義的である。

 私はときどき障碍者の方々が働いている食堂を利用することがある。そこでの業務の流れは必ずしも効率的ではないし、はたから見ていてぎこちない点がままある。しかし、私の主観かも知れないが、それぞれの人がやりがいをもって生き生きと働いているように思う。一生懸命作ってくれた料理を供されて、それを食べた私も満ち足りた気分になる。こうした事業は大抵赤字で補助金なしではとてもやって行けないし、業務そのものも健常者がやってしまった方が効率的にできるというのはその通りである。自立し持続可能な事業というにはほど遠いが、何とか改良工夫して続けていく努力はしなければならないと思う。人は誰もが必要とされその役割を全うすべき存在だからである。そういう社会が百丈禅師が目指す理想の社会ではないかと私は考えている。 

(参考 ==> 「公案インデックス」) 
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永劫回帰と無常

2023-05-22 09:36:23 | 仏教
 永劫回帰(永遠回帰とも言う)というのはニーチェの考えだしたことである。彼はこの世界が有限であると考えていた。世界が有限であれば、その世界を構成している要素も有限であるはずである。要素が有限であればいかにそれが膨大なものであってもそれらの組み合わせのバリエーションは有限である。ところが時間は無限だから、世界は同じことの繰り返しにならざるを得ないというのである。つまり私は今までに、無限回生まれ無限回同じ人生を送り無限回死んでいる、ということなのである。

 宇宙が有限であるかどうか時間が無限であるかどうか、それはわれわれの経験が及ぶところではないので知ることは難しい。例えニーチェの考えるように、宇宙が有限で時間が無限であったとしても、エントロピー増大の法則を知っている人ならば決してニーチェの考えている通りにはならないと考える筈だ。現在の宇宙は物質やエネルギーが偏在しすぎているので定常状態にあるとは考えにくい。それともう一つ、私と全く同じ肉体を持ち、全く同じ考えを持ち、全く同じ生涯を送った、そういう人間をすべて同じ人物とみなせるかどうかは疑問である。もちろん他者から見れば、同一人物にしか見えないだろうが、重要なのはその人にとって自分自身であるかどうかである。この件については過去にも論じたことがあるので参照していただきたい。( ==>「自分自身を同一視(identify)出来るか?」)
 
 揚げ足取りはこのくらいにして、ニーチェの真意に沿って考えてみたい。彼の言いたかったことは仏教の無常観に通じるところがあるような気がするのである。同じことを繰り返すというのは無常とは相反するような気がするが、無目的的であるということにおいては通底している。「変化し続ける」と「繰り返す」という違いはあるが、ただ自然法則に従っているだけで行き着く先というものがない。つまり、彼岸もなければ救済もない、我々はつねに過渡的で偶然的な運命に翻弄される卑小な存在でしかありえない、というニヒリズムがそこにはある。そういう意味で永劫回帰と無常は同じなのである。

 楽しいだけの人生を送る人もたまにはいるかもしれないが、大抵の人の人生には多くの苦渋が満ちているものである。その同じ人生を永遠に繰り返す、想像するとめまいを起こしそうなアイデアである。ニーチェはそれら全てを肯定的に受け止めよと言う。ここまでは仏教の出発点とほぼ同じである。そしてこの辺から仏教とは少し違ってくるのだが、ニヒルな世界に意義を見出す動機となるものが「力への意志」であると、ニーチェは言うのである。力への意志とは、強さ、美しさ、賢さ、快さ、気高さ、というような自分の精神をより高揚させるものを肯定し、一切の妥協を許さずそれを希求し続けるそういう姿勢のことである。妥協を許すというのは力への意志の否定であり、ほどほどで満足するというのは、己よりも更に弱い者を見て相対的にルサンチマンを晴らして自分の生に意義を見出すという弱者の論理である、とニーチェは言うのである。 ニーチェの思想はつまるところ一切の自己否定をせず欲望全開というところに行きついてしまう。かなり危険なものであるが、自分自身に対して誠実であるという面において、昔から若者には一定の人気がある。しかし、それは本当に自分自身に対して誠実と言えるのだろうか? 神のいない世界がニヒルであるなら、生きる意味を自分の内側に求めたことは理解できる。しかし、「力への意志」と言揚げした時点ですでに少し肩に力が入り過ぎているように思えるのである。
 
 では、仏教徒はどのようにしてニヒリズムを克服したらよいのだろうか? 「一切皆空」がスローガンであるから、むしろ「世界はニヒルだ」と言っているようなものである。なんかちょっと難しい。この辺が仏教の理解されにくい点だと思うが、「一切皆空」というのは、この世界に対し余計な意味付けをしないという意味である。ただ虚心坦懐に世界を見つめるだけで、この世界に意味があるかどうかは自己の内なる自然が決めるということなのである。「あるがまま看よ」というのはそういう意味に他ならない。栂ノ尾の明恵上人がある時道端のスミレの花を見て感動し落涙したという故事がある。一輪の野のスミレがそこに咲いている、そこにどのような力が働いているかは分からないが、それは偉大な奇跡ではないかと明恵は言うのである。「柳は緑花は紅」とは何の変哲もない当たり前のことである。その当たり前のことが尊いと私たちの内なる自然が云う、と明恵は説くのである。

 明恵ほどの修行をしていないわれわれは涙を流すほどのことにはならないかもしれないが、彼の感動をある程度理解できる。野のスミレが美しい。私たちはそういう世界の中にいる。やはり、人生は生きるに値すると思う。


わが家に遊びに来るスズメ
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この子が良い

2023-04-04 07:01:31 | 仏教
 一昨日(4/2)の東京新聞に俳優の美馬アンナさんの手記が掲載されていた。とても感銘を受けたのでご紹介したい。ちなみに美馬アンナさんは千葉ロッテマリーンズの美馬学投手の奥さんである。 美馬さん夫婦の三歳になる息子さんは四肢欠損症で右手首から先がなかった。出産直後にそのことを知ったアンナさんは非常に驚き嘆き悲しんだ。その時のことを彼女は「何をやっても涙が出る。世界が真っ暗になるというか、闇に包まれるというか。そんな思いでした。」と述懐している。

 彼女の悲嘆は察するに余りあるが、そんな時に夫である美馬投手は「お腹にいる時に分かっていたら産まなかったの?」と訊ねたのだそうだ。彼女が即答できないでいると、美馬投手は次のように言ったのだそうだ。
「右手のことが分かってても俺は産んで欲しいと言っていた。この子が良かった。俺たち二人の親のもとに生まれて良かったと、この子を幸せにしてあげる自信がある。」
この言葉を聞いてアンナさんは「それで、はっと世界が明るくなりました。」と述べている。

 私はこの記事を読んで、美馬投手の「この子が良かった」という言葉がとても心に響くのを感じた。店先に並んでいる商品なら、手に取って選ぶことが出来る。しかし子供は品物ではない。あらゆる因縁の網の目をくぐり抜けて夫婦のもとに授かった唯一無二の存在である。「比較して選ぶことなどできない」ということが「この子が良かった」という言葉の意味である。

 「五体満足」という言葉がある。その言葉には普通の人間とか完全な人間というニュアンスがある。しかし、現実にはそんなものは存在しない、と説くのが仏教の空観である。無常の世界ではいかなる固定的なものも存在しない。「普通の」とか「完全な」ものは存在しないのである。無常のなかではすべては過程的で変化の途中だからである。五体満足とか不具というのも恣意的な比較によって生まれる概念に過ぎない。よくよく考えてみれば完全なものと不完全なものの境界など存在しないのである。その辺のことについてはこのブログで繰り返し取り上げてきた。(参照=>色即是空 空即是色) そのような視点から見れば、「『障害』というものは存在しない、それは『個性』というものである」という言葉の意義も理解できるのである。  
 
 仏教における空観とは、比較による分別を廃し現実をありのまま受け入れるということに他ならない。アンナさんの「それで、はっと世界が明るくなりました。」という言葉は、ありのままの世界を受け入れるという悟りの言葉でもある。
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不殺生戒について考えてみた

2022-12-20 17:13:29 | 仏教
 一般に宗教は神秘的なものと考えられている。人間の生死に関わることや世界の成り立ちに関わることを扱うからだろう。仏教においても、葬式を執り行ったり加持祈祷をしたりするので、なにか神秘的なことに通じているのではないかという印象を持っている人も多いのではないかと思う。しかし、私の知る限りでは(というより、「私の考えている仏教では」と言うべきかもしれないが)、釈尊が説かれたことの中には神秘的なことはなに一つない。釈尊は、生まれる前と死んだあとそれからこの世界の成り立ちについてはなにも言及しておられない。そのような形而上のことがらについてはすべて無記なのである。

 思うに、釈尊の唱えられた教えというものはシャーマニズムの支配する当時においては余りにもラジカル過ぎたのかも知れない。人々はどうしても宗教に神秘的な力を求めているので、布教する側としてはそういう期待に方便として迎合したのではないか、と私は想像している。例えば六道輪廻ということについて考えてみよう。六道とは衆生がその業の結果として輪廻転生する6種の世界のこととされている。そして、自分が今このような境遇であるのは前世の行いの結果であると説くのであるが、これは釈尊が前世と死後のことは無記とされたこととは明らかに背反している。 辞書によると、「六道輪廻」は仏教用語ということになってはいるが、もともとは古代インド人が持っていた世界観で、釈尊以後の人が仏教の教説として取り入れたと考えられる。

 「自分の今ある境遇は前世の報いである」という説明は、諸悪莫作衆善奉行を推奨する宗教にとって分かりやすくて都合のいい教えかもしれない。しかし、報いがあるから悪いことはしないで良いことをするというのは仏教の原理ではありえない。それだと単なる損得勘定に従って行動しているのと何にも変わらない。損得勘定抜きで善いことをしなさいと言うのが仏教である。仏教における倫理の源泉というものは自分自身にしかない、決して他からは与えられないのである。

 「一切皆空」というのはものごとに恣意的な意味を与えないということである。計らいを捨て自然(じねん)に従う、そこに慈悲というものがあるというのが仏教の原理である。慈悲というのは現代語でいうところの愛である。そういう意味で仏教は究極の性善説と言える。非常にシンプルな教えであるが、シンプル過ぎて難しいという面もある。というのは、すべてが空ならそこには一切差別というものがなくなるはずである。したがって、人種や宗教によって人を差別するというようなことがあってはならないということになる。ここまでは誰でも理解できる。しかし、ゴキブリはどうだろうか? 仏教の原理をどこまでも押し通すなら、当然のことゴキブリにも慈悲を施さねばならない。不殺生戒というのはどんな宗教にもあるが、一般的には「人間を殺してはならない」という内容であることがほとんどである。ところが仏教では「一切衆生悉有仏性」である。つまりその対象はすべての生き物に及ぶのである。現に東南アジアの上座部仏教の僧侶は虫一匹殺してはいけないことになっている。それで裸足で生活している、小さな虫を踏み殺さない為である。
 
 シンプルな原理に基づく仏教はとてもラディカルなものを内包している。修行を徹底すれば、ゴキブリや蚊にも慈悲が湧いてくるというのは理解できないことではないが、現実に生きていくためには衛生的かつ快適な生活が必要だし、生き物を殺して食べるということも避けがたい。現実には原理原則でひとくくりにはできない面がどうしてもある。仏教には方便が多いというのもその辺に理由があると考えられる。現代の日本では、浄土系の僧侶などはほとんどが肉や魚を食べている。「かけがえのない命を頂いているのだから、粗末にしないで有難く頂戴する。」と言っているが、食べられる牛や豚の側からすれば、「粗末にしようがしまいがとにかく殺さないでくれ」と言うかもしれない。

 私は子どもの頃一時的に菜食主義者になろうとしたことがある。牛の屠畜についての話を聞いた時、その作業の冷酷さに身震いした。殺される牛の側に感情移入した時の恐怖から肉を食べることが出来なくなった。その時は、今後一切牛や豚の肉を食べるのは止そうと思ったのである。しかしそんな期間は長くは続かなかった。私は食べ物の中で牛肉が一番の好物なのである。罪悪感を感じながらも牛肉を食べることを止めることは出来なかった。それ以来私は自分が宗教的な人間にも倫理的な人間にもなれないということを思い知った。
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