禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

どうせ死ぬのになぜ生きる?

2024-10-31 17:30:02 | 哲学
 金閣寺の舎利殿に放火した青年僧は、ある時師匠に「生きる意味」について問うたところ、「意味などない」という答えだったそうだ。もしそのことが放火に至る一因であったとするなら、とても残念なことである。もしかしたら、もっと適切な答え方というものがあったかもしれないが、禅の修行をしている人ならもう少し師の言葉についてきちんと受け止めるべきであったような気がする。

   「人生は無意味」=>「生きることは空しい」
 
 なぜかこのような理屈が成り立ってしまうのが言語による規定の危うさである。 人生そのものが無意味であるというのは至極当たり前のことである。人は生まれて死ぬ、人類は延々とそれを繰り返している。そのこと自体には理由も目的も何もない。ただそうなっているに過ぎないことである。人は自分がなぜ生まれてきたかを知らない。しかし、生まれてきた人は欲望や感情を持っている。そこからいろんな目的や希望が生まれてくるが、それらはすべて具体的に生きることから生じてくるのである。「人生そのものの意味」などという抽象的なものはどこにもないのである。

 その修行僧はその時おそらく不如意な生活を送っていて、かなりの鬱屈を抱えていたのだろう。もう少し自分のおちいっている苦境について、切々と師に訴えればよかったのかも知れない。が、この人にとっては禅寺というのは不運な場だったと思う。浄土真宗やキリスト教寺院であったとしたら事情はかなり違っていたかもしれない。禅道場というのは自ら志を立てて道の為に精進するための場という前提であるからである。だから師は「人生は無意味」という突き放したような言い方をしたのも無理がないのである。その修行僧は自分自身で疑問の正体を見極めるために一層修行に励むか、それとも寺を出て新しい生活をしてみても良かったかもしれない。
 
 「どうせ死ぬのになぜ生きる?」という言葉はどう考えても変な言葉である。生きるのになぜ理由がいるのだろう。おそらく私たちの理性にはなんにでも理由があると思い込んでいるからである。その理由を見出せないと茫漠たる宇宙に放り出されたような不安を感じるのだろう。ただそれだけだと漠然とした不安にとどまるのだろうが、周囲の人とうまく交われない人が会社や学校で不如意の日々を過ごしている場合は、「自分が生きていることの確固とした足場が欲しい」と人は切実に願うようになる。しかし、私たちは欲望を抱えながら既に生きているのだ。いまさら「何のために生きる?」というような抽象的な問いかけに囚われるべきではない。
 
≪もういいかげん、生きることの意味を問うことをやめ、私たち自身が問いの前に立っていることを思い知るべきなのだ。生きることは日々、そして時々刻々、問いかけてくる。私たちはその問いに答えを迫られている。考え込んだり言辞を弄することによってではなく、ひとえに行動によって、適切な態度によって、正しい答えは出される。生きるとはつまり、生きることの問いに正しく答える義務、生きることが各人に課す課題を果たす義務、時々刻々の要請を満たす義務を引き受けることに他ならない。(P.129 フランクル著「夜と霧」 池田香代子訳-みすず書房) 
 
 要は地道に、考えるべきことを考え、なすべきことをなすということなのだろう。金閣寺に放火した修行僧のような境遇に置かれた人にとってはとても難しいことかもしれない。できればよき理解者や教導者に巡り合って欲しいと願う。生きるということはそれ以外に道はないのだから。

19年前、河口湖のカフェで食べたほうとうが美味かった。(記事内容とは無関係です。)
コメント (1)
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ドラマ「水戸黄門」について考える

2024-10-25 11:22:19 | 雑感
 時代劇「水戸黄門」は私が大学生の頃始まり、それから半世紀も続いたというお化け番組であります。正直に言うと、当初からこの番組のことを内心では馬鹿にしていました。権威主義的で安っぽい勧善懲悪もの、悪代官の命令に従っている木っ端役人を散々痛めつけたあげく、三つ葉葵の印籠をかざして「ひかえおろう」と見えを切る。はじめから身分を明かしておれば事情を知らない下っ端の役人たちは助さん角さんにどつかれる必要は全然ないわけで、どう考えてもその正義心には底意地の悪さが潜んでいるように感じてしまうのです。そんなわけで、私はこの番組を敬遠しておりました。

 ところが私はこのところ平日の夕方は水戸黄門の再放送を欠かさず見ているようになってしまった。放送のない土日の夜はなぜか物足りなく感じるほどの中毒状態と言っても良いほどなのです。いつもいつもおなじような筋書きで、しかも時代考証もリアリティも皆無で、安直な正義感を満たす軽薄なドラマという見方は変わってはおりません。しかし、面白いものは面白いと認めざるを得ないのです。もしかしたら私が年とったということかもしれません。私の父親は晩年近くなってからは時代劇ばかり見ていました。水戸黄門も欠かさず見ていたはずです。

 年寄になると時代劇が好きになるということはあるのかも知れません。しかし、水戸黄門について言えば私の子供達も結構好きだったようで、私の娘は小学校の修学旅行に行った折、三つ葉葵の紋所が入った印籠のおもちゃを買ってきて悦に入っていたほどです。やはり、老人だけでなく広範な人の心をつかむ普遍性がなければ半世紀も続くドラマにはなり得なかったでしょう。

 「水戸黄門」はどう見ても権威主義的で安っぽい正義感に貫かれたドラマだと思います。それが、全ての人の平等と民主主義を是とする近代精神と相容れないことは明らかです。それでも人々は水戸黄門に快哉をおくる。(私も含めて)人間は民主主義よりも、本当は超越的な立場からものごとを裁断する存在を望んでいるのではないでしょうか? そのような気がしてなりません。天下の副将軍の権威のもとに悪代官一味を懲らしめる。悪代官の命令に従っているだけの木っ端役人まで散々どつきまわしたあげく、印籠を振りかざして「頭が高い、控えおろう!」と土下座させる。それを見て留飲を下げる我々視聴者はやはり底意地の悪いとしか言いようがない。

 私たち人類の長い進化の過程をはほとんどが生存競争のための闘争の歴史でした。生き残るために必要なのは正義か悪かではなく味方か敵かということだったでしょう。リーダーに従って敵は完膚なきまでに叩きのめす。そうやって現在生き残っているのが私たちです。 そのように考えると、人間の平等を目指してプロレタリアート革命を成し遂げたはずの中国、北緒戦、ロシアなどが一向に民主化できないことにも説明がつきます。理性によるイデオロギーはきっかけに過ぎません。「民衆のために」と頑張ってきたはずが、ちょっとした路線対立がもとで血で血を洗うような闘争に発展します。そうした中では生存競争の原理のもとに強力なリーダーのもとに従って敵をぶっ潰すことが至上命題になるのです。対立する勢力を根絶やしにしても,リーダーの権威は残ります。今度はその権威を維持するために、粛清が続きます。結局、社会主義国の統治は権威主義を脱却できないのです。

 問題は社会主義国だけに限りません。森友学園事件に関する財務省文書改ざん問題、兵庫県知事パワハラに関する公益通報問題、いずれも自殺者まで出しています。このような理不尽な事件がなかなかなくならないというより、世間には似たような状況が日常化しているのではないかと考えられます。それは私たちの本性が権威主義に非常になじみやすい、というところからきているのではないかと私は考えています。

 たわいもないはずの水戸黄門からえらいところまで話は飛んできましたが、私たちの本性の中には理不尽なものが潜んでいる、ということは覚えておかなくてはいけないような気がするのです。
 
信州 小布施の喫茶店で(記事とは関係ありません)
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「大谷翔平と力道山」考

2024-10-20 19:08:43 | 政治・社会
 最近のテレビのニュースもバラエティも大谷だらけである。NHKのBSではドジャーズのシーズン中の試合はほぼ全試合放映したし、ポストシーズンの試合は地上波で放送している。おそらくドジャーズの試合の視聴者はアメリカにおいてより日本の方が多いのではないかという気がする。 実を言うと私自身も人後に落ちない大谷ファンであるが、このところの報道ぶりを見ていると些か行き過ぎではないかとも思う。



 なぜ人々はこれほど大谷選手の活躍に熱狂するのだろうか? どうもそれには日本人の田舎者意識が大きく寄与しているのではないかと私は思っている。日本は極東と言われる辺境の島国である。歴史的に見ても、中華や欧米の文明にあこがれ続けてきた経緯がある。そういうコンプレックスがあるために、外国からどう見られているかということがすごく気になるのだろう。だからスポーツ選手の評価にしても、外国においてどのように評価されているかということがとても重要なのである。


 そういう意味で私の知っている日本の最初のスポーツヒーローは力道山である。昭和三十年代の日本は敗戦のどん底からやっと立ち上がって復興の兆しが見え始めた頃であった。極悪な外人レスラーの反則技に苦しめられながら最後は伝家の宝刀空手チョップで叩きのめす、今から思えば実に安直な筋書きだが私たちはそれに熱狂した。戦争に負けてボロボロになった自負心がそれによって癒されたのである。力道山はNWA世界チャンピオンのルー・テーズなどとも互角以上の戦いをして、その実力が世界のトップレベルであることを示した。と多くの日本人は信じていた。当時の人々はプロレスが真剣勝負のスポーツでありショーだとは思っていなかったのである。だから、ほとんどの日本人は、力道山は格闘家として世界のトップクラスの強さを誇っていると本当に信じていた。当時の私たちはそれをとても誇りに思いプロレス中継に熱狂したのである。その熱狂ぶりは現在の大谷選手に対するものよりも大きかったと記憶している。 ただ残念なのは、力道山の存在は日本以外ではそれほど知られていなかったということが事実だということだ。それに彼の出自は現在の北朝鮮であり、その事実が当時知られていればあれほどの熱狂があったかどうかは疑わしい。当時の日本では韓国・朝鮮への蔑視が厳然として有ったからである。力道山人気はあくまで私たちのナショナリズムと強く結びついていたからである。

 日本人は外国人にどのように評価されているかを非常に気にする。そういう意味で大谷選手は掛け値なしのメガ・スターと言ってもよい。今やほとんどの野球好きのアメリカ人が大谷選手のことを超一流選手だと見做しているのは間違いない。インターネットでYahoo USAのホームページを検索すれば、ニュースのヘッドラインにShohei Otani の名が頻繁に出てくる。今までこれほどアメリカ人の注目を浴びた日本人はおそらくいない。大谷こそ日本人が待ち焦がれた本物のヒーローである。MLBの発表によればドジャース対パドレスのナ・リーグ地区シリーズ第5戦の日本における視聴者数は約1300万人だったらしい。その日はダルビッシュと山本の投げ合いということもあって特別日本での視聴率が高かったという事情はあるが、日本においてMLBの試合にこれほどの関心が高いのは大谷あってのことだろう。アメリカの人口は日本の約3倍あるが、おそらくその視聴者数は日本より少なかっただろう。おそらく日本では野球にそれほど関心のない人もトジャースの試合を見ているのである。そこにはやはり、ある程度日本人のナショナリズムがMLBの試合に関心を向かわせているのだろう。

 私はナショナリズムを頭から否定するつもりは毛頭ない。自分の属するコミュニティへの忠誠心はある程度あって当然だと思うし、私自身がそれほど野球に関心があるわけでもないのに、大谷のホームランを期待しながらドジャースの試合を人一倍熱心に見ているのである。しかし忘れてはならないのは、スポーツマンの栄誉はあくまでその人個人に帰するべきものであるということである。大谷がいくらホームランを打とうと、別に日本そのものや私が偉い訳でも何でもない、偉いのは大谷個人である。私はついでに喜ばせてもらっているに過ぎないことを肝に銘じておくべきだと思う。

 最近の大谷選手に対する報道のされ方にもちょっと気になる。大谷の実力は既にゆるぎないものとみんなが認めるところであるからには、もう少し冷静な態度が望ましいと思う。とにかくいろんなデータを引っ張り出してきては、いろんな角度からこれでもかというようなしつこくデータを引っ張り出してきて「これは新記録である」というような報道の仕方は如何なものかと思う。特に「50-50」の記録についてもそれは確かに偉業には違いないが、昨年度から投手に対する厳しいルール改正があったという条件付きで見れば、盗塁数について過去のデータと同じ土俵で比較するのは著しく公平性に欠けることを銘記しておくべきだと思う。あまりに行き過ぎた応援は、力道山の空手チョップに「ヤッタレーッ!」と絶叫したかつての私達のコンプレックスに満ちた顔が重なって見えてくるからである。スポーツに贔屓の引き倒しがあってはその価値が損なわれてしまうだろう。

 もう少し言わせてもらえれば、私はMLBのビジネスライクな考え方が大いに気にくわない。ドジャースのワールドシリーズのチケット料金は一番安い席で15万円、最上の席は300万円以上もすると言われている。はっきり言って馬鹿げている。すでに野球観戦は一般人が家族でこぞって楽しもうというようなものではなくなっている。子ども達を連れてボールパークに遊びに行くという牧歌的な様相はそこにない。これではアメリカの野球そのものの凋落は見えている。MLBは現在はビジネス的に成功しているように見えても、10年先はどうなっているかは分からないだろう。
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一人の人の人生を根こそぎ奪い取るということの重大さを畏れよ

2024-10-09 13:28:50 | 政治・社会
 袴田事件にやっと決着がもたらされそうだ。検察が控訴を断念して約半世紀にわたる裁判が終了する。膨大な人員とコストが間違った方向に注がれ、その結果一人の人の人生を丸ごと奪ってしまった。

 あらためて事件を見直すと、なぜ袴田さんが犯人と目星をつけられたのか? その理由が全く分からないのである。たった一つ理由として考えられるのが彼がボクサーだったということだろう。「ボクサーは腕っぷしが強い」=>「粗野な荒くれ者」=>「犯罪を犯してもおかしくない」という単純な思い込みによって、捜査の全精力を彼に集中させてしまい、他の可能性への捜査をすべて放棄してしまったのだろう。

 それが単なる思い込みでしかなかったことの反映が、45本という膨大な供述調書の件数に表れている。45件のうち証拠採用されたのは1件のみでしかない。要するに袴田さんは捜査側の誘導によって供述したのであろうが、その供述に反する証拠が見つかるたびに犯罪シナリオが書き換えられ、そのたびにそれに沿って供述させられたと考えるのが自然である。要するに犯人でない人を犯人に仕立て上げたから、無理筋のシナリオをでっちあげ続けたのだろう。

 唯一証拠採用されたいわば決定稿とも言うべき犯罪シナリオについても、それを支える決定的な証拠がないので、切羽詰まって味噌樽の中に血染めの衣類を仕込んだのだろう。その唯一の物証が裁判所に「ねつ造」と判断された。もはや袴田さんを事件の犯人と疑わせる材料は何もないのである。

 検察側はもはや勝ち目はないと控訴を断念したが、「物証のねつ造は空想的」と述べ強い不満も漏らしている。彼らは本当に捜査側による「ねつ造は空想的」と信じているのだろうか? 一年以上もたった現場から新証拠が発見され、しかもサイズが小さすぎるというような不自然さだけから見ても、捜査側による証拠のねつ造の蓋然性は極めて高いと言わざるを得ない。その上、科学的見地からもそれらの衣類は発見直前に味噌樽に入れられたものと断定されたからには、ねつ造を空想的であるとする考えの方が空想的と言われても仕方ないだろう。
 
 検察側の無罪判決に対する「強い不満」は単なるポーズに過ぎないとみる。公に判決を認めてしまえば、無辜の人を犯罪人に仕立て上げるために膨大な労力と費用をつぎ込んできたことを認めざるを得ないからである。証拠をでっちあげて人を犯罪人に仕立て上げること、それ自体は単なる窃盗などとは比べものにならないくらい重大な犯罪である。その重大な犯罪に加担するために、彼らの先輩方も彼らも膨大なエネルギーをつぎ込んできたことになる。言うまでもなく、彼らは税金で養われている人々である。袴田さんを有罪に追い込んで手柄を立てた捜査員は出世して、少なからぬ退職金をもらって退職しているだろう。すでに悠々自適の人生を全うした人も少なくないだろう。それに引き換え、袴田さんはやっと無罪を勝ち得たが、本人は長い拘禁生活のおかげで自分の身の上に起きている事態を認識できないような状態であるらしい。

 検察はもっと早く控訴断念すべきだったと思う。 2014年の静岡地裁による再審決定の際には次のような意見が付け加えられていた。
《5点の衣類という最も重要な証拠が捜査機関によって捏造(ねつぞう)された疑いが相当程度ある。国家機関が無実の個人を陥れ、身体を拘束し続けたことになる‥‥拘置をこれ以上継続することは、耐えがたいほど正義に反する。一刻も早く身柄を解放すべきである》
2011年9月に最高検察庁が策定し公表した『検察の理念』なる文書がある。その中の下記の一文を肝に銘じてもらいたい。
≪あたかも常に有罪そのものを目的とし、より重い処罰の実現を成果と見なすかのごとき姿勢となってはならない。≫

 裁判所側にも問題はある。もっと早く再審を開始すべきだったし、44本もの調書を不採用にしておきながらどうしてこの事件の不自然さに注目しなかったのか、現に袴田さんが無罪であるという心証を早くから持っていた判事も現にいたのである。
 
 警察、検察、裁判所はともに現実を直視しないで、惰性で仕事をしていたような感がある。一人の人の人生を丸ごと奪うという罪に加担している現実を直視するのはしんどいが、一人の人間を見殺しにしても大勢に逆らわず淡々と仕事しておれば優雅な老後が待っている。考えてみれば公務員というのは怖ろしい仕事である。
 
 袴田さんへの賠償金は2億円だのどうだのと話題になっているが、いまさら金であがなわれるような性質のものではない。彼への仕打ちが公の場で決定されていたからには、直接的ではないにせよ我々にもなんらかの責任はあるように思う。身の回りの不条理にはできる限り目をふさがないよう努める必要があると思う。
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