金閣寺の舎利殿に放火した青年僧は、ある時師匠に「生きる意味」について問うたところ、「意味などない」という答えだったそうだ。もしそのことが放火に至る一因であったとするなら、とても残念なことである。もしかしたら、もっと適切な答え方というものがあったかもしれないが、禅の修行をしている人ならもう少し師の言葉についてきちんと受け止めるべきであったような気がする。
「人生は無意味」=>「生きることは空しい」
なぜかこのような理屈が成り立ってしまうのが言語による規定の危うさである。 人生そのものが無意味であるというのは至極当たり前のことである。人は生まれて死ぬ、人類は延々とそれを繰り返している。そのこと自体には理由も目的も何もない。ただそうなっているに過ぎないことである。人は自分がなぜ生まれてきたかを知らない。しかし、生まれてきた人は欲望や感情を持っている。そこからいろんな目的や希望が生まれてくるが、それらはすべて具体的に生きることから生じてくるのである。「人生そのものの意味」などという抽象的なものはどこにもないのである。
その修行僧はその時おそらく不如意な生活を送っていて、かなりの鬱屈を抱えていたのだろう。もう少し自分のおちいっている苦境について、切々と師に訴えればよかったのかも知れない。が、この人にとっては禅寺というのは不運な場だったと思う。浄土真宗やキリスト教寺院であったとしたら事情はかなり違っていたかもしれない。禅道場というのは自ら志を立てて道の為に精進するための場という前提であるからである。だから師は「人生は無意味」という突き放したような言い方をしたのも無理がないのである。その修行僧は自分自身で疑問の正体を見極めるために一層修行に励むか、それとも寺を出て新しい生活をしてみても良かったかもしれない。
「どうせ死ぬのになぜ生きる?」という言葉はどう考えても変な言葉である。生きるのになぜ理由がいるのだろう。おそらく私たちの理性にはなんにでも理由があると思い込んでいるからである。その理由を見出せないと茫漠たる宇宙に放り出されたような不安を感じるのだろう。ただそれだけだと漠然とした不安にとどまるのだろうが、周囲の人とうまく交われない人が会社や学校で不如意の日々を過ごしている場合は、「自分が生きていることの確固とした足場が欲しい」と人は切実に願うようになる。しかし、私たちは欲望を抱えながら既に生きているのだ。いまさら「何のために生きる?」というような抽象的な問いかけに囚われるべきではない。
≪もういいかげん、生きることの意味を問うことをやめ、私たち自身が問いの前に立っていることを思い知るべきなのだ。生きることは日々、そして時々刻々、問いかけてくる。私たちはその問いに答えを迫られている。考え込んだり言辞を弄することによってではなく、ひとえに行動によって、適切な態度によって、正しい答えは出される。生きるとはつまり、生きることの問いに正しく答える義務、生きることが各人に課す課題を果たす義務、時々刻々の要請を満たす義務を引き受けることに他ならない。≫(P.129 フランクル著「夜と霧」 池田香代子訳-みすず書房)
要は地道に、考えるべきことを考え、なすべきことをなすということなのだろう。金閣寺に放火した修行僧のような境遇に置かれた人にとってはとても難しいことかもしれない。できればよき理解者や教導者に巡り合って欲しいと願う。生きるということはそれ以外に道はないのだから。
19年前、河口湖のカフェで食べたほうとうが美味かった。(記事内容とは無関係です。)