禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

「意識」は存在するか? (その2)

2017-11-14 06:57:06 | 哲学

哲学者は問題点を浮き上がらせるために「思考実験」というものをよくやる。ウィトゲンシュタインの「カブトムシの箱」というものをご紹介したい。

 --そこで、人は皆ある箱をもっている、としよう。その中には、我々が「カブトムシ」と呼ぶあるものが入っているのである。しかし誰も他人のその箱の中を覗くことはできない。そして、皆、自分自身のカブトムシを見ることによってのみ、カブトムシの何たるかを知るのだ、と言うのである。--ここにおいて、人は皆各々の箱の中に異なった物をもっている、ということも可能であろう。否、それどころか、箱の中のものは絶え間なく[不規則に]変化している、ということすら想像可能であろう。
--さてしかし、このような人々における「カブトムシ」という語が、それでも彼らにおいて、有効に使用されるとすれば、どうであろう? --そうであるとすれば、「カブトムシ」という語のその使用は、ある物の名前としての使用ではない。箱の中の物は、そもそも--「あるもの」としてすら--その言語ゲームには属さないのである。 : なぜなら、その箱の中は空っぽですらあり得るのであるから。--その言語ゲームは、箱の中の物帆素通りすることによって、「短絡される」ことが可能なのである : 箱の中の物は、たとえそれが何であれ、無くされ得るのである。 (「哲学的探究」の293節より)

つまり、「カブトムシ」という語が、言葉のやり取りの中で一見有効に働いているように見えても、その名がさす対象そのものはすっぽり抜け落ちている、カブトムシについてはなにを述べても無意味だということになる。

この「カブトムシ」を「意識」に置き換えてみよう。私の意識は私だけに見えていて他人には見えない。同時に他人の意識は私には見えず、その人にしか見えない。上記の思考実験にぴったり当てはまることが分かる。

つまり、「意識」という言葉がさす対象のものはない、ということになってしまう。これは「自分の直観とは大きく違う」と言いたくなるが、「意識」という言葉が「リンゴ」や「石」という言葉とかなり違うことも確かである。リンゴや石が、「このリンゴ」や「あの石」というふうに直示できるのに対し、例えば「これが私の意識だ」とは明確には示せない。よくよく反省してみれば、すべてが私の意識のような感じがするのである。「すべてが私の意識」ならば、「私の意識」というものも意味をなさない、という理屈が了解していただけるだろうか。

皆がそれぞれ自分の意識の箱の中を覗いている、という構図そのものが、実はすっぽりと私の意識の箱の中身なのだということである。そして、私の箱の外部というものは実はないのである。外部のない内部だけの箱は既に箱とは言えない、すでに対象としては把握できないものである。

すべてを自分の意識として見る見方を「梵我論」、意識が実は対象化され得ないものとして見る見方を「無我論」と言ってよいと思う。禅を研究している人の間で「梵我」と「無我」の相違にこだわる人もいるが、言葉が違うだけで現実認識としてはどちらも同じものでないかと私は考えている。

( 「その3」につづく )

象の鼻パーク ( 横浜市 )


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「意識」は存在するか? (その1)

2017-11-08 10:59:36 | 哲学

哲学好きの人の間では、「意識」というものがよくテーマとなって議論される。特に最近では、「意識なるものは存在しない。」というような論調が多くなってきているようだ。。「意識」が存在すると言えるためには、なにをもって「意識」というかということが明らかにされねばならない。そのことについて考えてみたいと思う。

「哲学的ゾンビ」という言葉がある。意識のない人間という意味である。意識がないと言っても、外見からは分からない。話しかけられれば通常の人間と同じように受け答えする。人間としての機能は完全に持っているが、意識が欠けている人間という意味である。早い話が、全く人間と見かけが同じで、精巧なAⅠをそなえたアンドロイドを想像してもらえればよいだろう。

完全に人間としての振る舞いをするアンドロイドが実現したとしても、それには意識がないと一般には考えられている。アンドロイドは機械であり、AIはいくら精巧であっても、そこで起きている現象は機械的な現象に過ぎないと考えられているからである。それに引き換え、人間は意識を持ち、その意識の中らにはクォリアが展開されている、と考えられている。

クォリアというのは質感とも訳されるが、早い話あなたが見ているもの、嗅いでいる匂い、感じている痛み、それらの感覚そのもののことである。赤いバラのありありとした赤い色、カレーライスのおいしそうなにおい、恋人を待っている時のはやる気持ち、それらをすべてクォリアと呼ぶ。あなたの意識の中にあるものはすべてクォリアであるとされている。

「なぜ空は青いのか?」 この問いに科学者なら、「空気中のちりが特定の波長の光を散乱させ、それが目に入るから。」と答えるだろう。色はその波長の違いによるものと現在では知られている。つまり特定の波長の光が私たちの視神経を刺激すると、私たちには青い色が見えるということである。

では、その特定の波長の光が視神経を刺激するとなぜ青く見えるのか? 科学では、あなたの見ているこのありありとした「青」のクォリアは説明できない。あなたの脳内で起きていることは単なる電気的反応に過ぎないからである。これがいわゆる「意識のハードプロブレム」(英:Hard problem of consciousness)と呼ばれている問題である。

ここで意識の存在の問題に戻るが、あなたにはあって、アンドロイドにはないとされるもの、それを私たちは「意識」及び「クォリア」と呼んでいることが分かる。

しかし、ここに重要な問題がある。上の文中で私は「あなたの意識の中にあるものはすべてクォリアである。」と述べたが、実は私はあなたの意識を確認したことはないのである。
「あなたにあって、アンドロイドにはない。」というようなこともなんの根拠も無しに述べている。

( その2につづく )

清姫が大蛇となって渡ったと伝えられる日高川 (和歌山県御坊市)

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