少しでも禅をかじったことのある人ならだれでも知っているでしょう、無門関の第一則です。臨済宗では「隻手音声」と並んで初関として与えられることの多い公案です。公案の内容はいたって簡単です。
趙州和尚、因みに僧問う、「狗子(くし)に環(かえ)って仏性有りや也(ま)た無しや。」州云く、「無。」
( ある僧が趙州和尚に「犬にも仏性がありますか?」と問うたところ、趙州は「無」と答えた。)
おそらく参禅者は「無」の一字に集中するよう指導される。そして日がな一日中むーむー言っていることになる。一生懸命やっていれば、そのうち自分が無か無が自分かという状態になる。いわゆる三昧です。そうなればそのうち「はっ」と気付く。思わず大声で「無ーだぁ!」と叫びたくなるかもしれない。いわゆる概念の崩壊である。あらゆるものの差別相がなくなり、いかなるものにも固定的な本質というものがないことを知ります。師家にもよりますが、たいていの場合その時点で見性を認められるでしょう。そこから初めて本格的な禅の世界へ足を踏み入れることになります。
禅問答というのは知識のやり取りではありません。これこれこうですと教えてもらって、ああそうかと納得するようなものではないのです。「犬に仏性がある」と言われて「犬に仏性がある」と知る、禅的にはそのような分かり方を「何かを知った」とは言わないのです。犬に仏性があるかどうかは、まず仏性がなんであるか見極めることが出来なければ言えないし、その上で自分が犬でなければ、あるともないとも言えないのが本当の道理というものでしょう。
趙州和尚の「無」は、そのような言葉のやり取りに対する拒否の意味も含まれているように受け取れます。無門慧開はこの「無」を有無を超越した「無」であるとしています。この公案を第一則に取り上げたのは、まず有無の邪見を排し中道を目指すための最初の関門という意味でしょう。そしてこの公案集を「無門関」と名付けたのは、無門和尚の名にちなんでということもあでしょうが、この「無字」の一関に「無門関」全体の性格を象徴させているということもあると思います。最終的には、「仏性」と「無」がぴったり重なるところまで工夫しなければならない深い意味を持つと思います。
参禅のことはひとまずさておいて、インターネットにはびこる当公案に対する解説に気になる点があるので、そのことについて少し注文をつけたいと思います。
大抵の解説は、僧が「犬に仏性がある」ということが仏教上の通念であることを前提として、趙州に問いを投げかけたということになっている。しかしどうだろう、そんなに簡単に「狗子に仏性有り。」としてしまって良いのでしょうか?
ちなみに「仏性」とは、コトバンクによると
≪仏教用語。覚性とも訳され,如来蔵の異名ともされる。完全な人格者,仏陀となるべき可能性をいう。われわれが仏陀の教えを聞き,その教えに従って修養努力して行くことによって,ついには完全な人格者となることができるのは,われわれのうちに真理を理解し,それを体得実現しうる可能性があるからで,この能力が仏性である。≫
となっています。えらく難しい。「仏性」が上記のとおりの意味であるならば、「仏陀」がどういうものであるか分からなければ、「仏性」の意味もまた分かりえないのではないでしょうか。つまり、悟っていなければ「仏性」について語ることもまたできないはずです。理屈を言えば、犬の仏性を問題にする前に、まず先に自分の仏性が問題になるはずなのです。先にも指摘したことですが、「一切衆生悉有仏性」などという言葉を聞いて分かったつもりになったとしても、それは単なるスローガンにしかなりません。
インターネット上の解説は、ほとんどその辺のことはすっ飛ばして、趙州の答えた「無」は有無を超越した「無」であるというようなことを、判で押したように述べているのですが、この辺は参禅など経験したことのないほとんどの読者にとってはきわめてわかりにくい。そういう人たちにとっては、「仏性があるのかないのか」について空疎なパズルを提供するだけのことになってしまい、ひいては禅に対して見当違いなイメージを持たせてしまうことにもなっているのではないでしょうか。
私の個人的な意見を言わせてもらえば、この「仏性」という仏教用語は「心」のことであるとすればどうかと思うのです。「仏性」という日常的になじみのない言葉よりも「心」という言葉の方が手ごたえがありそうです。 「犬に心はあるのか?」というのは一般の人にも哲学的課題として有意味であるようにも思えます。そのうち「心ってなんだろう?」と自問するようになるでしょう。分っているつもりでも実は分かっていない「心」について考えているうちに趙州の「無」に肉薄する人も出てくるかもしれません。
もう一つ公案に向かう場合には、禅には実存的な視点しかないないということをわきまえている必要があります。問題とされているのは、常にここと今しかなく、問われているのは自己についてであるということです。禅には己自究明以外の問題はないと考えるべきであります。したがって、ここで問われているのは、表面的には犬の仏性でありますが、本当に問われているのは自分の仏性についてであります。犬を外から眺めていてもなにも分かりません。自分がその犬になりきって公案に向かい合わなくてはならないのであります。
(参考 ==> 「公案インデックス」)
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