最近は警察からよく電話がかかってくる。「おれおれ詐欺が流行っているので、注意してください」とのこと。我が家は年寄世帯なので、警察もいろいろと気を使ってくれているようだ。これだけテレビで詐欺について報道されているのに、この手の犯罪は一向に衰える気配はない。どうしてあんな見え透いた話に引っかかってしまうのだろうとはよく言われるが、現実にたくさんの人が今も騙され続けているのである。
つくづく思うのだが、「信じる」ということが吾々の心の中の根幹の中にあるのではないかと思うのである。なにもかもを疑うことなどできない。まず何かを信じるという土台があって、初めて疑うことができる。でなければ、我々は底なしのニヒルに落ち込んでしまうだろう。だから我々は無意識のうちになにかを信じているのである。そう、大抵のことを私たちは無意識のうちに信じている。意識的に「信じているということを信じている」ということと、「信じている」ことは別のことである。問題はその知識となるものの根拠に絶対的な基準がないということにある。絶対的な基準がないという上に、その人の生まれてからの経験にを通してその人自身が築き上げるしかないものである。
生まれたときは親の言うことを信じるしかない、学校に上がれば先生の言うことに耳を傾ける。成長するにしたがって、知識の根拠というものを多角的にとらえなければならないということをわきまえるようになる。しかし、自律的に判断する根拠というものが相対的であるということは変わらないということは重要である。テレビで詐欺事件のニュースを聞いた時、「あんな見え透いた話を信じるなんて馬鹿だなあ」というようなことがよく言われるが、本当は誰もそのことを笑うことはできない。見え透いた話にだまされるのは騙される人の事情というものがあるのである。
私は今テレビドラマの「テセウスの船」というのを見ている。主人公が31年前にタイムスリップするストーリーなのだけれど、主人公が自分は未来からやってきたあなたの息子だと打ち明けるシーンがある。父親は最初はそれはヨタ話であると拒絶するのだが、最終的には信じるようになる。もし、現実に、ある日知り合った若者が「私はあなたの息子で30年後の未来からやってきました。」などと大真面目に言ったとしたら、彼は詐欺師であるか精神に障害のある人と考えて間違いない。しかし、ドラマを見ている私はすんなりそのストーリーを受け入れているのに気がつく。どこかにこの話を受け入れる要素が私にもあるのではなかろうか。もし、大勢の人が私をだますための大規模なプロジェクトを組み、その青年が私の息子である証拠や映像をねつ造して私に見せたとしたら、私は騙されないと言い切れるだろうか? なんであれなにかが真実であるという絶対的な基盤というものはどこにもない。 我々は何かを信じないという訳にはいかないのである。