禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

リアルな世界に完全なものは存在しない

2016-08-30 09:32:37 | 仏教

8月25日付の記事「仏教はリアルな世界を追及する」では、『リアルな世界には固定的なものは一切存在しない。』と述べた。これは現実の世界には本質というものが存在しないということに根差しているのだが、このことからもう一つ重要な命題が導き出される。

  『リアルな世界には完全なものは一切存在しない。』

例えば「完全な円を描きなさい」と言われても、私達にはそれが出来ない。コンパスを使って丸い円を描いても、顕微鏡で見れば理想的な円には程遠いことはすぐわかる。この世界には比較的丸いものとそうでないものとしか存在しないのである。「比較的」というからには、比較してみないとそれは分からないということである。一つのものを取り出して、「これは丸い」ということは言えない。その背後には必ず比較がある。つまり、絶対的に丸いものは存在しないということである。

仏教は無神論である。つまり、この世界を差配する絶対的な存在を前提としない。そういう意味において、現実に存在するものはすべて偶然的で無根拠的である。それが無常であり空であるということの意味である。本質主義を否定しているので、概念による規定はあくまで比較による仮のものに過ぎない。

そういう流れからすると、当然「完全な人間」というものもまた存在しない。みんな不完全な人間であるということになる。しかし、不完全な人間というのは、完全な人間と比較しなければ存在しえないものである。完全な人間がいなければ不完全な人間もまたいないのである。

  『概念による規定はあくまで比較による仮のものに過ぎない。』

ひところ「障碍者という人はいない」ということが言われたことがある。なにをもって「障碍者」と言うか? それを突き詰めていけば障碍者の本質などというものは存在しないということに行きつく。比較的強い人と弱い人がいるだけである。比較しなければ障碍者もまた存在しないのである。

ちょうど一か月前に相模原の障碍者施設で痛ましい事件があったことはご記憶の事と思う。元職員であった犯人は確信犯であったようで、「自分は善行をした」と思っているらしい。彼は特に障害が重篤な人を選んで殺傷したという。つまり、生きるに値しない「不完全な人間」を排除しようとしたのである。

一体何のために? 「不完全な人間を排除すれば、美しい世界が実現する」という優生学的幻想に取りつかれたのだろう。不完全な人間をいくら排除しても、比較する心がある限り不完全な人間はなくなりはしない。どんどん不完全な人間を排除していけば、必ず自分が不完全な人間であるということを認めざるを得ない地点に到達する。その時は自分を自ら排除しなくてはならないだろう。

仏教では絶対的・固定的なものを否定する。完全と不完全を識別する絶対的基準もまた存在しない。犯人は自分がその絶対的基準を持っていると勘違いした。それは自分が神になり替わることに他ならない、あり得ないことである。

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仏教はリアルな世界を追及する

2016-08-25 11:30:32 | 哲学

以前、「お釈迦さまは実存主義者」という記事をアップしたが、言い足りなかったことを改めて補いたいと思う。釈尊の哲学は常に、リアルなものつまり現実に存在するものを対象としていた。実は「無常」も「空」もそこのところから生じてくるのである。

「無常」や「空」がリアルであるとは、逆説的に聞こえるかもしれないが、実に当たり前の道理なのだ。例えば現に存在するものの例として、目の前の文鎮について考えてみよう。鉄製の文鎮は堅牢でずっと同じ形を保っているように見えるが、何年もするとところどころさびてきて、やがてはボロボロになってしまうはずだ。そのボロボロになったものはもはや文鎮とは呼ばれない。では、文鎮とボロボロになった『文鎮でないもの』の境界はどこにあるのだろう? もし、文鎮の本質というものがあるならば、その境界が明晰に示されるのでなければならないはずだ。

きれいな文鎮がボロボロになってしまうことを「無常」と言い、文鎮の本質というものが実在しないことを「空」というのである。禅の師家が文鎮を指さして、「私はこれを文鎮と呼ぶが、君はこれをなんと呼ぶ?」と問うのは、その辺の消息を見極めよということである。

  『リアルな世界には固定的なものは一切存在しない。』

これが仏教の根本理念である。このことは、プラトン以来、「真・善・美」という不変の価値を追及してきた西洋思想と大きく相違する。大雑把に言って、西洋哲学はアイデアルな対象を追及し、仏教哲学はリアルな世界を追及してきたと言っていいだろう。

では、仏教的には「真・善・美」は存在しないのか? という疑問がわくのは当然だと思う。この辺は徹底していて、「真・善・美」といえども究極的なものとしては存在しない、あくまで縁起の中で生じる「仮」のものでしかない、というのが仏教の視点である。

プラトンは「善のイデア」といういわば究極の「善」そのものが存在すると考えたようである。それは絶対にして永遠不滅のものであるから、人間がこの世に出現する前からあり、人類が滅びたのちも残る、と考えられる。

ここでひとつ、ライオンが進化して人間以上の知性を獲得したと仮定してみよう。彼らは言葉をしゃべり、進んだ科学技術や文明をものにしたとしたら、はたして善悪を解することが出来るだろうか? もし究極的な「善」が存在するのであれば、彼らもそれを理解する筈だが、そのようなことはあるまい。ライオンが文明を築き上げたとしたら、彼らなりのルールや人間社会における倫理に相当するものも生まれるだろう。
しかし、それが人間の言う「善」と重なり合うことはおそらくない。人間とライオンでは生活様式が大きく違うからだ。「善悪」などと言ってみても、しょせんそれは人間のご都合に過ぎない。究極とか絶対はあり得ないのである。

(関連記事)

 「お釈迦さまは実存主義者」

 「無常とは世界の無根拠性に気づくこと」

 

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仏教の心を歌う歌

2016-08-17 10:19:11 | 雑感

先日テレビで、「ぶっちゃけ寺」という番組を見た。現役のお坊さんが出演するというバラエティ番組で、その日のテーマは「仏教の心を歌う日本の名曲」ということだった。当然のことだが、歌謡曲はどこか心の琴線に触れるものがあるからはやり歌になるわけで、心の問題を扱う宗教に理屈を付けて関係づけることはそれほど難しくない。こういう試みを通じて仏教を親しみやすいものにするのもいいかもしれない。

しかし、少し気になる点があったので2点ほどあげておきたい。

まず最初に気になったのが、中島みゆきの「時代」である。この曲は文句なしに名曲だが、それについてのお坊さんのコメントが引っ掛かったのである。

〽 まわるまわるよ 時代はまわる
〽 喜び悲しみ繰り返し
〽 今日は別れた恋人たちも
〽 生まれかわって めぐりあうよ

この歌をあげたお坊さんが言うには、この歌は仏教の「輪廻」を表現しているというのである。確かに、六道輪廻は仏教の教説として語られるが、釈尊自身は死後のことについて語ることはなかったということは僧職なら覚えておくべきだと思う。
仏教では方便的な説明もある程度は許されているので、長い年月を経た今となっては、仏教内部で矛盾した教説もままある。「輪廻」という概念もその一つである。我々の経験は死後の世界には及ばない。経験の到達しえないことに言及すれば、それは想像でしかない。単なる想像を真実であるかのように言うのは仏教の精神に反してはいないだろうか。かつては六道輪廻も方便として有意義であったかもしれないが、到底近代精神と相いれる説ではない。

釈尊は経験の到達しえない領域の事柄については「無記」として、言及を避けたのである。このことは重く受け止めるべきだと考える。

一般に日本の歌はウェットであると言われる。自己陶酔型の歌詞が多いからだろう。演歌などはほとんど煩悩がテーマであると言っても過言ではない。たいていはネガティブな感情に浸って、自己憐憫におぼれているような歌である。つまり、煩悩のただなかにいて、なおかつそこに執着する。これは「執着を断つべし」という釈尊の教えに真っ向から対立する、そんな歌が実に多い。そんな中で、「スーダラ節」のようにつきぬけた明るさのある歌があるのも面白い。浄土真宗のお坊さんはこの歌を仏教の心を示す歌として挙げていた。

〽 分かっちゃいるけどやめられねぇ

確かに、分かってはいてもやめられないのが人間である。どんなにまっすぐ生きようとしても厳しい現実に折れてしまったり、甘い誘惑に取り込まれてしまうのが人間である。そういう弱い人間に対する親鸞のまなざしはとても優しい。親鸞の教えは寛容で、「分かっていてもやめられない人間」にとって大きな救いである。

しかし、親鸞の教えは寛容であっても、親鸞の信仰への姿勢はとても厳しい。その厳しさ故に、「分かっているけどやめられない」という人間の弱さに絶望しているのだ。だからこそ阿弥陀如来に助けられるしかない、という他力信仰に行き着くのである。

「分かっちゃいるけどやめられねぇ」と大声で歌っているだけでは、そこにみほとけの教えはないどころか、「本願ぼこり」的な居直りのにおいもする。そうなると親鸞の教えと真逆にもなる危険もある。テレビに出てくるお坊さんには、もう少し丁寧な説明をしていただきたいと思った次第である。

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隻手音声を聴け

2016-08-05 09:57:02 | 公案

 「隻」とはひとつという意味である。対になっているものの片方を指す場合に使われる。隻眼とは片目のこと、隻手は片手のことである。

両手を合わせればパンと音がする。いわゆる拍手である。これが片手だともちろん音はならない。そのならない音を聴け、というのがこの公案の趣旨である。

この公案は日本臨済宗中興の祖と言われる白隠禅師が考案したもので、臨済宗では修行の初めに、趙州無字かこの隻手音声のいずれかの公案が初関として与えられることが多い。

公案というのは常識的には無理なことが要求される。片手では音の鳴りようがないのだから聞くことはもちろんできない。それを何が何でも聞けというのだから、それは無理というものである。まともに考えればそれはできないことだから、最初は謎解きを解くようなつもりでいろいろと想像を巡らせる。しかし、それらはことごとく師家に拒絶される。師家は愚直かつ真剣に隻手音声を聞くことを要求するのである。

あらん限りの想像力を駆使しても師家はそれを受け付けない。ああでもないこうでもないという想像は論理に従っている。師家はその論理を超えることを要求しているからだ。その論理を超えるところを無理会という。

臨済宗の寺では毎日ことあるごとに、「無理会の処に向かって究きわめ来り究め去るべし」(「興禅大燈国師遺誡」(※注)) と唱和している。その無理会に到達しないことには禅は始まらないのである。 ついでに言えば、無理会に到達することにより、論理というものがどういうものであるかがよく見えてくるということもある。それは哲学についてもプラスだと思う。

その無理会は理屈の無い所であるから、ああだこうだと考えているうちは縁遠い。万策尽きて三昧に入ったときにはじめてそれが見えてくるのである。当ブログは宗教としての禅ではなく、あくまで哲学を論じるものであるから、このようなことに言及するのは本意ではないのだが、いろんなブログ記事で隻手音声について筋違いなことが論じられているのが少し気になったのである。

素人が公案についていろいろ想像をめぐらし、自分の見解を述べるのはかまわないと思う。例え見当はずれのことであっても自分の考えを述べるのは自由である。しかし、「禅」という言葉を冠にしてそれを商売のタネにしている人が、自己流の解釈を堂々と公表するのはいかがなものかと考えるのである。

(参考 ==> 「公案インデックス」

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(※注)臨済宗の寺では坐禅の前後、食事の前後、ことあるごとに「興禅大燈国師遺誡」というものを唱える。大徳寺の御開山である大燈国師が遺言を和讃としてしたためたものである。

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