8月25日付の記事「仏教はリアルな世界を追及する」では、『リアルな世界には固定的なものは一切存在しない。』と述べた。これは現実の世界には本質というものが存在しないということに根差しているのだが、このことからもう一つ重要な命題が導き出される。
『リアルな世界には完全なものは一切存在しない。』
例えば「完全な円を描きなさい」と言われても、私達にはそれが出来ない。コンパスを使って丸い円を描いても、顕微鏡で見れば理想的な円には程遠いことはすぐわかる。この世界には比較的丸いものとそうでないものとしか存在しないのである。「比較的」というからには、比較してみないとそれは分からないということである。一つのものを取り出して、「これは丸い」ということは言えない。その背後には必ず比較がある。つまり、絶対的に丸いものは存在しないということである。
仏教は無神論である。つまり、この世界を差配する絶対的な存在を前提としない。そういう意味において、現実に存在するものはすべて偶然的で無根拠的である。それが無常であり空であるということの意味である。本質主義を否定しているので、概念による規定はあくまで比較による仮のものに過ぎない。
そういう流れからすると、当然「完全な人間」というものもまた存在しない。みんな不完全な人間であるということになる。しかし、不完全な人間というのは、完全な人間と比較しなければ存在しえないものである。完全な人間がいなければ不完全な人間もまたいないのである。
『概念による規定はあくまで比較による仮のものに過ぎない。』
ひところ「障碍者という人はいない」ということが言われたことがある。なにをもって「障碍者」と言うか? それを突き詰めていけば障碍者の本質などというものは存在しないということに行きつく。比較的強い人と弱い人がいるだけである。比較しなければ障碍者もまた存在しないのである。
ちょうど一か月前に相模原の障碍者施設で痛ましい事件があったことはご記憶の事と思う。元職員であった犯人は確信犯であったようで、「自分は善行をした」と思っているらしい。彼は特に障害が重篤な人を選んで殺傷したという。つまり、生きるに値しない「不完全な人間」を排除しようとしたのである。
一体何のために? 「不完全な人間を排除すれば、美しい世界が実現する」という優生学的幻想に取りつかれたのだろう。不完全な人間をいくら排除しても、比較する心がある限り不完全な人間はなくなりはしない。どんどん不完全な人間を排除していけば、必ず自分が不完全な人間であるということを認めざるを得ない地点に到達する。その時は自分を自ら排除しなくてはならないだろう。
仏教では絶対的・固定的なものを否定する。完全と不完全を識別する絶対的基準もまた存在しない。犯人は自分がその絶対的基準を持っていると勘違いした。それは自分が神になり替わることに他ならない、あり得ないことである。