前回記事の「恁麼」というのはいわゆる「あるがまま」の視点を意味する。それは、理屈では説明できない、あるいは理屈による説明が必要ではないということである。
「空の色が青いのはなぜだろう?」
科学者は、波長が450~495nm(ナノメートル)の光が私たちに青く見えるのだと教えてくれる。それはそれで有用な情報であると言えるが、哲学でこの問題を取り上げる場合は、光の波長がかくかくであればなぜ青く見えたり赤く見えたりするのか、ということを問うているのである。つまり、物理的な現象によってなぜ意識現象が生じるのか、といいうことである。
哲学者の中にはこれを「随伴現象」であるとかいうふうに説明している人もいる。随伴現象説とは、
『意識やクオリアは物質の物理的状態に付随しているだけの現象にすぎず、物質にたいして何の因果的作用ももたらさない』(wikipediaより)というような立場である。
かいつまんで言うと、これは「波長が450~495nmの光が私たちには青く見える。」と言っているただそれだけの話である。それはおそらく科学的には間違いではない。しかし私が違和感を感じるのは、青いというクォリアの原因として波長がなにがしかの光であると説明していることである。哲学的に言うならば私たちは決して光そのものを見ているわけではない。私たちの意識に生じる様々なクォリアをもとに、光という物理現象を措定したのである。話の前後が逆なのだ、我々のクォリアの変化に応じて、我々の外部の物理世界という虚構を整合的に構成し、その中で光というものを措定しているのである。
つまり本当のことを言うと、クォリアの方が先にあって、物理学はそのあとに構成されたものである。我々が青色を感じるとき、その構成された世界の中の光がたまたま波長を450nmとすれば整合的であるということに過ぎないのである。だから、「波長450nmの光が目に入ると青色を感じる。」という説明は、「空の色が青いのは空の色が青いからである。」と言っているように、私には感じられるのである。何も説明してはいないのである。
物理学に対してケチをつけているわけではない。科学というものは哲学的な視点から見ればすべて構成物であると言いたいのである。構成物によって究極的な説明はできない。「空が青く見える」ということの究極的な理由はない。我々はまず「空が青く見える」ということを究極の事実として受け止めなければならない。それが「あるがまま」を受け入れるという視点であり、恁麼ということの意味である。
もう少しわかりやすい例を挙げてみよう。
「強いものが勝つのではない、勝ったものが強いのである。」とはけだし名言である。私たちは勝つことの原因としての「強さ」というものを措定するが、実はそれは構成された措定物でしかない。なぜなら「強さ」というものは「勝つ」ことを通してしか見えてこないのである。勝つことの以前に強さはない、強さは勝つことを通して初めて定義できる。このプラグマティックな名言は素朴だが力強い哲理によって支えられているのである。