禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

何でも理屈で説明できるというのは間違いであるということを、理屈で説明する。

2014-12-28 12:09:48 | 哲学

前回記事の「恁麼」というのはいわゆる「あるがまま」の視点を意味する。それは、理屈では説明できない、あるいは理屈による説明が必要ではないということである。

    「空の色が青いのはなぜだろう?」

科学者は、波長が450~495nm(ナノメートル)の光が私たちに青く見えるのだと教えてくれる。それはそれで有用な情報であると言えるが、哲学でこの問題を取り上げる場合は、光の波長がかくかくであればなぜ青く見えたり赤く見えたりするのか、ということを問うているのである。つまり、物理的な現象によってなぜ意識現象が生じるのか、といいうことである。

哲学者の中にはこれを「随伴現象」であるとかいうふうに説明している人もいる。随伴現象説とは、

『意識やクオリアは物質の物理的状態に付随しているだけの現象にすぎず、物質にたいして何の因果的作用ももたらさない』(wikipediaより)というような立場である。

かいつまんで言うと、これは「波長が450~495nmの光が私たちには青く見える。」と言っているただそれだけの話である。それはおそらく科学的には間違いではない。しかし私が違和感を感じるのは、青いというクォリアの原因として波長がなにがしかの光であると説明していることである。哲学的に言うならば私たちは決して光そのものを見ているわけではない。私たちの意識に生じる様々なクォリアをもとに、光という物理現象を措定したのである。話の前後が逆なのだ、我々のクォリアの変化に応じて、我々の外部の物理世界という虚構を整合的に構成し、その中で光というものを措定しているのである。

つまり本当のことを言うと、クォリアの方が先にあって、物理学はそのあとに構成されたものである。我々が青色を感じるとき、その構成された世界の中の光がたまたま波長を450nmとすれば整合的であるということに過ぎないのである。だから、「波長450nmの光が目に入ると青色を感じる。」という説明は、「空の色が青いのは空の色が青いからである。」と言っているように、私には感じられるのである。何も説明してはいないのである。

物理学に対してケチをつけているわけではない。科学というものは哲学的な視点から見ればすべて構成物であると言いたいのである。構成物によって究極的な説明はできない。「空が青く見える」ということの究極的な理由はない。我々はまず「空が青く見える」ということを究極の事実として受け止めなければならない。それが「あるがまま」を受け入れるという視点であり、恁麼ということの意味である。

もう少しわかりやすい例を挙げてみよう。

 「強いものが勝つのではない、勝ったものが強いのである。」とはけだし名言である。私たちは勝つことの原因としての「強さ」というものを措定するが、実はそれは構成された措定物でしかない。なぜなら「強さ」というものは「勝つ」ことを通してしか見えてこないのである。勝つことの以前に強さはない、強さは勝つことを通して初めて定義できる。このプラグマティックな名言は素朴だが力強い哲理によって支えられているのである。


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恁麼(いんも)

2014-12-27 23:50:59 | 哲学

「恁麼」とは日常ではまず使われることがない言葉だが、禅関係の書物を読んだ方ならだれでも知っているはずである。禅においてはそれほど重要な言葉である。禅的世界観はこの一語に尽きると言っても過言ではないだろう。

恁麼は「このよう」というような意味である。例えば、「世界とはどのようなものであるか?」と問われた時、禅僧が「恁麼」と答えたとする。その意味は、「世界とはこのようなものだ。」ということである。

別に人をはぐらかそうとしているわけではない。ものごとを突き詰めてみれば、結局は「このよう」としか言い得ないような地点に戻ってくるのである。どのような問いにも「恁麼」と答えておけば、まず間違いがないと言える。

このことの意義を理解するために西洋哲学との比較をしてみよう。例えば「欲望」というものについて考えてみることとする。従来の西洋哲学では、欠如したものを獲得しようとするのが欲望の本質である、というようなことが言われていた。それに対して、ドゥルーズやガタリは、欲望とはあくまで実在的な生産過程である、というようなことを言う。どちらが正しいのかということはここではさほど重要ではない。西洋的な発想というのは、欲望を分析してその構造がどうなっているかを比喩的な言葉で表現しようとしているということを言いたいのである。

欲望を比喩的な言葉でとらえようとするのは、心理学としての学問には有益なことかもしれない。そのことはさておいて、究極的には「欲望」をどのような言葉に置き換えたとしてもそれは「欲望」そのものではないと考えるのである。

あなたがある女性を好きになったとする。あなたは「私の欠如しているものを彼女の中に見出してそれを求めている」と表現するかもしれないし、それとも「彼女に対して私のなにもかも捧げつくしたい」と表現するかもしれない。どちらでもよい。しかし、どちらも究極的な表現ではない。あなたが彼女に対して感じている衝動は、その衝動そのもの以外ではありえないからである。その欲望についてはあなたはすべて知悉しているはずなのである。すべてはつまびらかであるにもかかわらず、人はときに「愛ってなんだろう?」というようなことを口にする。そういう問いには、「恁麼」と答えるしかない。

雲門禅師というえらい坊さんはその若いころ、茶店で団子を食べようとしていたら、店の婆さんに「貴方は団子を、過去の心現在の心未来の心のうちのどの心で味わうのですか?」と訊ねられて返答できなかった。今味わっている瞬間というのは数学的には過去と未来に挟まれた幅のない点でしかない。訊ねられて、団子を味わっている間がないことに気がついたので答えられなかったのだ。

しかし、団子は食べればうまいのである。雲門は団子をほおばって、ただ「恁麼」と答えればよかったのだ。問われて答えに窮するのは、西洋的な分析癖に毒されているからである。

真実は物事を分析して構造を解き明かしたのちに現れると考えられがちだが、禅的には真実は分析の前にあるのである。


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私の内と外

2014-12-23 12:41:05 | 哲学

坐禅をすると自分の内と外との境界がなくなっていくと言われる。これは決して神秘的なことについて述べているのではない。そもそも自分の内と外に境界があるのは人間だけであろう。人間以外の動物はおそらく状況の中で自身もまた状況となって生きていると考えられる。

        では、なぜ人間には内と外があるのか?

おそらくそれは他者を意識するからに違いない。人間だけが公共の言葉をもち、それによって他者とコミュニケイトする。そのコミュニケーションはお互いに共通の世界にいるという前提で初めて成り立つ。言語によるやり取りはあくまで共通了解を目標としているのであって、そこで語られることはお互いが持つ共通の世界のことなのである。その時点で初めて自分の内と外を意識することになる。

自分と他者が共通に持つ視界を「外」、自分には見えるが他者には見えない視界を自分の「内」、他者には見えるが自分には見えない視界を他者の「内」とするのである。

自分の内と外、他者の内と外、それらの境界はコミュニケーションの中で自然と生じてくる。なぜなら公共の言語は本来、共通の視界のものについてしか語りえないからである。であるから、本来は語りえない「自分の内」を語るには、他者と自分の「内」に同型が存在するという前提で、他者と自分の「共通の『内』」として語るのである。それは「『他者としての自分』を語る」と言い換えてもいいだろう。

「客観」とは万人共通の視点から見たものと言う意味だろうが、実はそんなものはあり得ない。はるかかなたの虚空から、自分も他者をもすべて見下ろす神の視点を想定して、それを「客観」と呼んでいるのである。
その客観視線で自分や他人を見つめれば、その中に「同型」が見える、というのはあくまで想定に過ぎないが、そう想定することによってはじめて「心理学」が成り立つのである。心理学だけではない、この客観的視点による世界のとらえ直しがなければ科学は成り立たない。このことについては考えがまとまったらいつか詳述したいと思う。

およそ「学」というものは言葉により他者に伝えるためのものである。とりわけ自己の深層に分け入る哲学もまた言葉による公共の「学」なのである。本来の自己と言うものはどうしても「語りえないもの」だがあえてその「語りえなさ」について語りまくる。しかし、語った瞬間にそれは「他者としての自己」を語っているということにならざるを得ないのである。どうしてもそこには「英国にいて英国の完全な地図を描く」という問題が生じてくるのである。

禅もまた究極の自己を求めるものである。だとすればそれは「語りえぬもの」であり、不立文字には理由があるのだと理解できる。

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