自分が馬鹿か利巧かと自問すれば、大抵の人はどちらかと言えば利巧であると思っているのではないだろうか。それは至極当然と言えば当然のことである。人は自分が分かることは分かる。逆に言えば自分が分からないことは分からない。実に当たり前のトートロジーであるが、このことをわきまえておくことはとても重要である。分からないことが視野の外ならば、分かることばかりなので万能感が生まれやすい。 自分の思考力を客観的に把握するためには、自分の分かることだけではなく分からないことも分からなければならない。分かることと分からないことの両方が分からなければ、本当の意味で自分の限界を知ったことにはならないのである。
「分からないことを分かる」というのは矛盾したもの言いである。「それまで分からなかったことが分かるようになる」ということはあり得るが、それは単に「分かる」領域が広がっただけであり、あえて言うなら「分かり得ることが分かった」に過ぎない。その外には依然として分からない領域があるという構図自体に変化はない。哲学者のようにいつもものを考えている人は、自分の考える限りのことを考えているので、「俺はこんなことまで考えている」(=「俺は賢い」)と考えてしまう罠に陥りやすい。
最近は高齢者の交通事故が問題になっている。もう車の運転はやめて欲しいと子や孫が頼んでも、「俺は絶対大丈夫」と言い張る年寄りが多い。手も足も自分の思い通りに動かせるから全然OKというわけだが、その「思い通り」そのものがスローモーションになっていることにはなかなか気づけない。
人間は自分のことを自分の内側から見ることは出来ないのである。かといって、自分を外側から直接見ることもできない。自分を知るには、自分そのものではなく自分の行状の結果を見て判断するしかないのである。いわゆるテストというのはその目安にはなる。高齢だが運転免許を手放したくないという人は、反射神経や判断力のテストを受けてみると良いだろう。毎日日記を付けている人なら昔の日記を読み返して、昔はこんなに好奇心が旺盛だったのかとか、記事内容がだんだん淡白になっていことに気づいたりする。私は仲間由紀恵さんという俳優が好きで彼女の出る番組をよく見るが、度々彼女の名前を失念する。それも二度や三度ではなく、何年間にも渡って一人の俳優さんの名前の憶えたり忘れたりを繰り返している。こうなってくると、自分の知的能力の衰えを疑わない訳にはいかないのである。
これを読んでいるあなたは、以上のようなことを述べている私について、冷静に自分を見つめることができる殊勝な人間であるというような印象を持ったかもしれない。しかし、実はそうではなくて、客観的にはダメ要素ばかりの私でもなかなか内側から湧き上がる傲慢さを抑えるできない、むしろそんな人間である。だから、周りからいくら諫められても車の運転を止めることができない頑固老人の気持ちがよく分かる。いつの日か、周りに迷惑をまき散らしながらそれを自覚することができないぼけ老人になってしまうのではないか、目下の所それが私の一番の心配事である。
小田原市 上府中公園