あるテレビ番組を見ている時、数学とは何かということについて「数学とは違うものを同じと見なす学問である。」という説明がされていた。言われてみてなるほどと思った。3個の大福と3個のミカンは全然別のものだが同じと見なす。3個という性質以外はすべて無視するのである。そうすると「3」という数としての抽象概念が成立する。同様にして「1」や「2」をつくっていくと自然数というものが出来上がる。現代数学の重要な一分野に位相幾何学(トポロジー)というのがあるが、これは粘土をちぎったりくっつけたりしないで変形できる形をすべて同じと見なす学問である。だから位相幾何学ではドーナツとティーカップは同じ、鉄アレイと湯飲み茶わんは同じものと見なされる。
数学においてどのような関係を「同じ」とみるかは極めて自由である。以下の三つの条件さえ備えておればそれらは同じである(同値関係にある)と見なしても良い。
・反射律: a = a.
・対称律: a = b ならば b = a.
・推移律: a = b かつ b = c ならば a = c.
この同値関係というものを適用することによって私たちはものごとを抽象・分類しているのである。ものごとが「分かる」というのは、同じかそれとも違うかという区別がつくということと密接につながっている。
以上のことを整理してみると、数学というのはものごとを抽象・一般化した概念や記号に対して論理を働かせる学問であると言うことが出来ると思う。ここで言う「論理」とは同じか同じでないかあるいは矛盾するかしないかを判別したり前提から結論を推論する操作のことである。よくよく考えてみれば、同じことは数学に限らず他の学問についても言えることである。物理学で言えば、万有引力は大谷のホームランボールの軌跡を説明することもできるし、地球や月の運行を説明することもできる。抽出した条件を整えさえすれば同じ法則を違う場面にも適用できる汎用性がある、それが科学である。
「はじめにことばありき」というのは有名な聖書の言葉だが、その意味は「すべての根源は(神の)ことば」であるというような意味らしい。その「ことば」の部分は古典ギリシア語の λόγος (ロゴス)の翻訳らしい。興味深いのはそのロゴスが言葉と論理という意味を併せもっていることである。英語における論理を意味する言葉である「ロジック」(logic)もロゴスから派生してきたものである。 論理と言葉には密接な関係がある。論理はその対象としての固定された概念かまたは記号が必要だからである。つまり論理の運用である思考は言語によって行われる、我々は言葉で思考するのである。
思考が言葉によってなされる以上、そこには必ず抽象化ということが伴っている。次回記事は来年になるが、その事についてもう少し論じてみたい。では、よいお年をお迎えください。
サンタモニカ・ピア (記事内容とは関係ありません。)