「私」とは何だろう? 問うている意味がわかりにくい問でもある。「『私』って私に決まっているじゃない?」と言いたくなるのも分かる。辞書で引けば、「〖代〗自分自身を指す語。第一人称単数の代名詞 ‥」となっている。それで今度は「自分」を引いてみると、「その人自身」となっている。つまり、「私」とは私自身のことを指す代名詞だということになる。もうこれ以上追及できないらしい。どうやら私自身は私にとって自明であるということなのだろう。私自身はもう他の言葉では説明できない。 デカルトは「私は考える。だから私は存在する。」と言った。すべてが疑わしいと考えたデカルトも「私が存在する」ということだけは確実であると考えた。この言葉は非常に説得力があった。あらゆることに先立って「私が有る」と、多くの人々が考えるようになった。
ここで小話を一つ。あるとき美人で有名な女優さんが演技に行き詰まり、スランプに陥ったらしい。それで、カメラの前に立つのが怖くなって監督の顔もまともに見られないという状態になってしまった。その人はまじめで思いつめる質の人であったようです。これではとてもプロの俳優としてやっていけないということで、禅寺にでも行かせて修行させてみようという話になった。そうして、その女優さんは田舎の誰も来ないようなさびれた禅寺へ行くことになった。その禅寺に行くと老師から直々に公案(禅問答のお題)が与えられました。それは「本当の自分をもって来なさい。」という公案だったそうです。公案が与えられると、一日中坐禅しながらそれに取り組まなくてはならず、毎晩老師の前で自分の見解を提示しなくてはなりません。女優さんはああだこうだと散々考え抜いて自分の考えを述べるのですが、老師は一向に許してくれません。「ぐずぐす考えずに、素直に本当の自分を持ってくるのじゃ」と言います。「素直に」と言われても、彼女にはなにが「素直」かが分からないのです。参禅というのは真剣になればなるほど苦しくなります。とりわけ彼女は生真面目な人だったようです。とうとう彼女は半泣きになって「もうこれ以上、云うべきことは何もありません。」と居直ったそうです。老師は「まだまだ自分をさらけ出しておらん。裸になるのじゃ。」と言ったところ。彼女は考えあぐねた挙句、清水の舞台から飛び降りる想いで、服を脱いで全裸になりました。彼女にしてみればこれが最後の死ぬ思いであったに違いありません。しかし、そこで老師曰く
「まだじゃ。まだ皮をかぶっておる。」
最後のオチまでついていて作り話としてもなかなかよくできているが、なかなか示唆に富む話ではないかと思う。日常語としての「私」というのは私の意志に従って動かすことの肉体も含んでいると考えられる。つまり自分の皮膚の内側が自分である。そういう意味では女優が裸になったというのもそれほど的外れなことではない。しかし、ここで言うところの「本当の自分」とは、認識主体としての自分の事だと考えられる。そういう意味で、「自分の」手と言っても刀で切り落としてしまえば、それはもう自分以外のものになってしまう。足もまた腕と同様、こうしてどんどん切り離していくと、ついには体がなくなってしまう。でもまだ脳みそが残っている、とあなたは言うかもしれない。それでは、脳みそが「自分」だろうか? ここで、自分の意識の中を反省してみよう。例えば記憶についてはどうか、記憶は自分自身の人格にかかわる重要な機能だが、しかし私たちはよく物忘れする。記憶喪失になったら、ある意味別人と言ってもよいかもしれない。しかし、記憶をなくす度合いも色々で、どこからが別人になるという線引きもできないことから考えても記憶が自分自身の本質であるということは言えない。視覚や聴覚という感覚はどうだろう?。世の中には、音の聞こえない人、目の見えない人、痛覚のない人が沢山いるが、あくまでその人はその人である。このように対象化され得るものを切り捨てていけば何が残るだろうか?
それでもまだ自意識が残っているのではないか? と言いたくなるのではないだろうか? しかし、眼耳鼻舌身意をすべて断ち切られた自意識というものをあなたは想像できるだろうか? あえてそれを想像せよというのが「本当の自分をもって来なさい」という公案の趣旨ではないかと私は考える。認識する主体そのものを認識することは出来ない。それがなんであるかということは言えない。あえて言うならそれは「無」と言うしかない。それが「無」であればこそなんでも見聞きできるし、何でも考えることができるのである。鏡には銀が塗られているが反射面そのものには何もない、何もないから何でも映すことができるのと同じである。無我とは歪んでいない、汚れてもいない鏡のようなものである。それでこそ正しい世界を映し出すことができる。「万法に証せらるる」というのはそういうことである。
横浜 山下ふ頭のガンダム