禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

「私」の概念規定は?

2022-01-29 12:25:27 | 哲学
 「私」とは何だろう? 問うている意味がわかりにくい問でもある。「『私』って私に決まっているじゃない?」と言いたくなるのも分かる。辞書で引けば、「〖代〗自分自身を指す語。第一人称単数の代名詞 ‥」となっている。それで今度は「自分」を引いてみると、「その人自身」となっている。つまり、「私」とは私自身のことを指す代名詞だということになる。もうこれ以上追及できないらしい。どうやら私自身は私にとって自明であるということなのだろう。私自身はもう他の言葉では説明できない。 デカルトは「私は考える。だから私は存在する。」と言った。すべてが疑わしいと考えたデカルトも「私が存在する」ということだけは確実であると考えた。この言葉は非常に説得力があった。あらゆることに先立って「私が有る」と、多くの人々が考えるようになった。

 ここで小話を一つ。あるとき美人で有名な女優さんが演技に行き詰まり、スランプに陥ったらしい。それで、カメラの前に立つのが怖くなって監督の顔もまともに見られないという状態になってしまった。その人はまじめで思いつめる質の人であったようです。これではとてもプロの俳優としてやっていけないということで、禅寺にでも行かせて修行させてみようという話になった。そうして、その女優さんは田舎の誰も来ないようなさびれた禅寺へ行くことになった。その禅寺に行くと老師から直々に公案(禅問答のお題)が与えられました。それは「本当の自分をもって来なさい。」という公案だったそうです。公案が与えられると、一日中坐禅しながらそれに取り組まなくてはならず、毎晩老師の前で自分の見解を提示しなくてはなりません。女優さんはああだこうだと散々考え抜いて自分の考えを述べるのですが、老師は一向に許してくれません。「ぐずぐす考えずに、素直に本当の自分を持ってくるのじゃ」と言います。「素直に」と言われても、彼女にはなにが「素直」かが分からないのです。参禅というのは真剣になればなるほど苦しくなります。とりわけ彼女は生真面目な人だったようです。とうとう彼女は半泣きになって「もうこれ以上、云うべきことは何もありません。」と居直ったそうです。老師は「まだまだ自分をさらけ出しておらん。裸になるのじゃ。」と言ったところ。彼女は考えあぐねた挙句、清水の舞台から飛び降りる想いで、服を脱いで全裸になりました。彼女にしてみればこれが最後の死ぬ思いであったに違いありません。しかし、そこで老師曰く
   
   「まだじゃ。まだ皮をかぶっておる。」

 最後のオチまでついていて作り話としてもなかなかよくできているが、なかなか示唆に富む話ではないかと思う。日常語としての「私」というのは私の意志に従って動かすことの肉体も含んでいると考えられる。つまり自分の皮膚の内側が自分である。そういう意味では女優が裸になったというのもそれほど的外れなことではない。しかし、ここで言うところの「本当の自分」とは、認識主体としての自分の事だと考えられる。そういう意味で、「自分の」手と言っても刀で切り落としてしまえば、それはもう自分以外のものになってしまう。足もまた腕と同様、こうしてどんどん切り離していくと、ついには体がなくなってしまう。でもまだ脳みそが残っている、とあなたは言うかもしれない。それでは、脳みそが「自分」だろうか? ここで、自分の意識の中を反省してみよう。例えば記憶についてはどうか、記憶は自分自身の人格にかかわる重要な機能だが、しかし私たちはよく物忘れする。記憶喪失になったら、ある意味別人と言ってもよいかもしれない。しかし、記憶をなくす度合いも色々で、どこからが別人になるという線引きもできないことから考えても記憶が自分自身の本質であるということは言えない。視覚や聴覚という感覚はどうだろう?。世の中には、音の聞こえない人、目の見えない人、痛覚のない人が沢山いるが、あくまでその人はその人である。このように対象化され得るものを切り捨てていけば何が残るだろうか?
 
 それでもまだ自意識が残っているのではないか? と言いたくなるのではないだろうか? しかし、眼耳鼻舌身意をすべて断ち切られた自意識というものをあなたは想像できるだろうか? あえてそれを想像せよというのが「本当の自分をもって来なさい」という公案の趣旨ではないかと私は考える。認識する主体そのものを認識することは出来ない。それがなんであるかということは言えない。あえて言うならそれは「無」と言うしかない。それが「無」であればこそなんでも見聞きできるし、何でも考えることができるのである。鏡には銀が塗られているが反射面そのものには何もない、何もないから何でも映すことができるのと同じである。無我とは歪んでいない、汚れてもいない鏡のようなものである。それでこそ正しい世界を映し出すことができる。「万法に証せらるる」というのはそういうことである。

横浜 山下ふ頭のガンダム
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

即非の論理再考

2022-01-26 12:24:23 | 哲学
 即非の論理とは、鈴木大拙博士が次のように定式化したものである。
  
 「A は A にあらず、ゆえにAなり」 
 
これはもともと金剛般若経の次の一節をもとにしたものである。

 「仏説般若波羅密、即非般若波羅密、是名般若波羅密」

これだと本来は「A は A にあらず、これをAと名づく」とならねばならないはずだが 、あえて「ゆえにAなり」としたのは、禅の大家でもある大拙居士が体空観による実感をもとに、そのように定式化したのであろう。(体空観については以前記事にしたことがあるので参照していただきたい。 ==> 「析空観と体空観」
 
  禅を実践している人には大拙居士の言うことが腑に落ちるのだろうが、そういう人にはそもそもそういう定式化は必要ない。一般人にはゆえにAなり」は余りにも論理を無視した言い方なので神秘的過ぎる。論理を無視した説明は所詮説明にはなり得ない、情報としては「そういう境地がある」というだけのことである。いずれにしろ、「A は A にあらず、これをAと名づく」で十分だと思うのである。

 もう少し具体的に考えてみよう。「A」の部分を「山」に置き換えてみる。

  「山は山ならず、これを山と名づける」

我々は山を見て「山」と言う。しかし、「山」と呼ばれるものの実体はないと言うのが、「山は山ならず」と言う所以である。山は土と石でできている。その山を少し削るものとする。そしてその土と石をバケツに入れたとする。私たちはそのバケツに入れられた土と石を決して山と呼ぶことはない。また、少しくらい削られても、相変わらず元の山を「山」と呼ぶ、削られた分確実に変形しているにもかかわらずである。
仮に半分くらい削られても、それは山と呼ばれる。だが、どんどん削っていくと、必ずそれは山と呼ばれなくなる。その境界というものはあるのだろうか。一体私たちはなにを指して「山」と呼んでいるのだろうか?
 
 このように考えていくと、私たちが「山」と呼んでいるものの実体は存在しないことになってしまう。それが「山は山ならず」と言うことである。山に限らない、私たちの持つ概念と言うものはすべて、このように実体をもたない抽象的な記号に過ぎないのである。一見具体的なものごとを考えているつもりでも、我々の思考は抽象化された記号の操作である。また、その抽象化がなければ、我々の思考も不可能となる。だから、(便宜的に)「これを山と名づける」のである。
 
 
片瀬東浜の雪の朝
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

空とは概念の解体である

2022-01-23 12:18:42 | 哲学
 海の景色はどこもよく似ている。砂浜や磯があって、そこに常に波が打ち寄せている。波打ち際では、海水がひいては打ち返すということが延々と繰り返されている。この同じことが反復されるということから「波」という概念が成立する。もう一度概念の定義って見よう。
 
 「同類のもののそれぞれについての表象から共通部分をぬき出して得た表象」
 
つまり、抽象ということである。「概念はすべて抽象されたものである」ことを忘れてはならない。そこで問題となるのが、「同類のもの」というがどの程度似ていれば同類と見なすか、その客観的な基準がないことである。どの波も似ているように見えるが、どれ一つとして同じものというものはないのである。水の動き方は実は無限にあり、厳密に見れば全く同じものというのはどこにもない。つまり、なにも反復などしていない。「波」と呼ばれているものの実体というものはどこにもないのである。

 西洋思想には言葉と論理によって世界を説明できるというロゴス中心主義が根強く居座っているが、東洋思想の根底には「あらゆるものは実体をもたない」というものの見方(空観と言うが横たわっているのである。 

 「人間」という概念について考えてみよう。人間一人一人を厳密に点検して見れば、どの人間をとってもまったく同一という人はいない。一卵性双生児であっても微細な点では必ず違いがある。様々な人がいるにもかかわらず、どの人も人間と分かるのはなぜか? プラトンは形而上の領域に「人間のイデア」というものがあると考えた。それは神によって設計された人間の範型すなわち人間の本質である。その範型に照らすと、どのような姿形をしていても、どの人間も人間の本質を満たしているかぎり「人間である」と分かる、というのである。果たしてそうだろうか? 現在では、人間とサルは共通の祖先をもっていることが知られている。進化の系統樹がどのようになっているかを私は知らないが、少なくとも猿と人間が分化するまでは人間は一人もいなかったと考えるべきだろう。ならば必然的に「最初の人間」が存在したということになる。そうだとすると、その「最初の人間」の親は人間ではないということになる。そこには人間と人間以外の境界が存在する。もし、人間のイデア(本質)が本当に存在するなら、人間と人間以外の境界は客観的に存在し、誰でも人間と人間以外を識別できるはずである。
 
 「子は人間だがその親は人間ではない」というような判定が客観的にできるだろうか? 人間だけではない、生物種の分類方法というものは新種が見つかるたびに動揺する。客観的な本質などというものは存在しない。境界は人為的(つまり恣意的)に決定するしかないのである。

 本質が存在しないのはものの概念だけではない。例えば「歩く」という動作を表す概念について考えてみよう。「歩く」ということを厳密に定義できるだろうか。例えば、「片足ずつ交互に前に出して前進すること」というふうにしてみよう。それで例えば、そのとき足を各々1ミリずつ前に着地させた場合、その奇妙な動作をあなたは「歩いている」というふうにみるだろうか。 たぶん、大抵の人はそれを「歩く」とは言わないで、「足踏み」をしていると見るだろう。一体、一歩につきどのくらい前進すれば「歩く」と認められるのか、そのような客観的な基準は存在しない。「歩く」ということの本質も存在しないのである。

 西洋の論理学では、A=A という同一律と A ≠ 非A という無矛盾律が最も基本的な論理規則とされている。「同じである」ということと「違っている」ということが基本になって論理が組み立てられるのである。ところが、仏教ではこの世は無常であると見る。あらゆるものは不断に変化流動していて停止することはないとみる、だから A=A を見出す契機というものもないのである。御坊哲という人間は明日になっても同じ御坊哲ではないかと、あなたは反論するかもしれない。同じに見えるのはあくまで抽象化された御坊哲であって、厳密に見れば御坊哲も新陳代謝しており微妙に変化し続けている。内面的にも、何かを考えたり見たり聞いたりしている。つまり各瞬間に経験を蓄積しているわけだから、なにをもって御坊哲の本質であるかということは客観的には定まらない。
 
 抽象概念も論理も人間が生きていくためには必要である。しかし、言語(概念)と論理によって世界が描き切れるというロゴス中心主義には問題がある。抽象概念は固定的な幻想を生み出すからである。現前する現実には固定的なものは存在しない、だから我々が執着すべきなにものも存在しない、それが空の思想である。

稲村ケ崎から江の島と富士を望む
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「概念」について考えてみた

2022-01-21 11:15:54 | 哲学
 「概念」でググってみると次のように説明されていた、
  • 同類のもののそれぞれについての表象から共通部分をぬき出して得た表象。
  • 対象を表す用語について、内容がはっきり決められ、適用範囲も明確な、意味。
 この説明ですっと理解できる人は、ある程度言語操作に慣れている人に違いない。私が初めてこの言葉を教えられたのは中学校の国語の授業だったと思う。おそらく先生は上のような説明をしてくれたのだと思う。しかし、よく理解出来なかった。不審顔の私達を見て、先生は「まあ、言葉の意味やと思っとけ」と言ったように記憶している。

 正三角形と正四角形の違いは誰にでも分かるだろう。図示されたものを見ても直感的に分かるし、「角が三つ」と「角が四つ」の違いは歴然としている。しかし、正一万角形と正一万一角形についてはどうだろう? 図形を頭の中で思い浮かべることは不可能だろうし、それらの図形が正確に描かれたものを見せられても、私達には判別できないだろう。おそらくどちらも円にしか見えないはずだ。しかし、意味的には「角が1万」と「角が1万1」の区別ははっきりと分かる。この場合における「はっきりと分かる」ということが概念として分かるということである。眼で見て区別できないものも、概念としては区別できる。そのように考えてみると、先生が「まあ、言葉の意味やと思っとけ」と言ったのもそれほど的外れなことではない、概念は言葉がなければ成立しない。

 細菌やウィルスは目に見えないけれど、大抵の人はそれらが別のものだということは知っている。第一に大きさが違う。細菌は約 1~5 μm だが、インフルエンザウイルス. の大きさは 80~120 nm だという。nm(ナノメートル) がμm(マイクロメートル) の千分の一だということは知っていても、すでにμmがあまりに小さいためにその大きさの違いを感覚的に把握するのは不可能で、あくまで我々はその大きさの違いを概念的に知っているに過ぎない。なにを言いたいかと言うと、私達は具体的な細菌やウィルスに直に遭遇することはないということである。現象としては風邪をひいたり下痢をしたりする症状として現れる。そしてその症状を説明する医学論文などによって規定される理論上の概念が細菌でありウィルスなのである。細菌やウィルスだけではない。電子、原子、素粒子だのという科学で扱う概念の大抵は、膨大な理論を背景に持つ理論上の概念である。万有引力にしても、ニュートン以前には存在しなかったのである。それまでは、物はただ下に落ちるものと思われていただけだった。ニュートンが初めて、リンゴが落ちるということと天体の運行を統一的に説明できる万有引力の法則を発見した。しかし、「引力」そのものを直に見たものは誰もいないことには変わりない。あくまで引力というのは万有引力の法則という理論によって規定された理論概念なのである。
 
 概念なしで科学は成立しない、我々は言葉(=概念)で思考するからである。そのような観点から見ると、新約聖書の「始めに言葉(LOGOS)ありき」が西洋思想の根幹にあるということもよく理解できる。この言葉の宗教的意義についてはよく分からないが、西洋ではロゴスが言葉であり理性であるということが象徴的である。「論理」というのは logic の翻訳語であるが、日本人が「西洋人は論理的である」と感じるのは当然であると思う。

 では、日本人は論理的ではないのか? ということについては次回に論じたい。

駅前はムクドリの天下
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

何を信じるかそれが問題だ

2022-01-14 11:45:51 | 雑感
 私たちは何かを信じて生きている。それは間違いのないことである。デカルトは「少しでも疑いうるものはすべて偽りとみなしたうえで,まったく疑いえない絶対に確実なものが残らないかどうかを探るべき」と言ったそうだが、そんなことは不可能だと思う。デカルトは「私が今夢を見ている可能性を否定することは出来ない。」と言うが、何もかも疑うなら、夢だとか現実だとかいう枠組みさえも無くなりカオスになってしまう。なにかを信じていなければ疑うことさえできないのである。なにかを信じているという土台があってこそ疑うこともできるのである。
 
 もしかしたら、「私は根拠のないものは信じない。だから科学的なもの以外は信じない。」と言う人もいるかもしれない。しかし哲学的視点から見れば、科学でさえ一種の信仰に過ぎないのである。「宇宙に斉一な秩序が存在する」ということを信じて初めて科学は成立するが、宇宙斉一説の論理的根拠というものは存在しない。今日まで万有引力の法則が有効であったが、明日からもそうであるという必然的な論理的根拠、保証は実はどこにもないのである。だから科学を信じるなという話をしているのではない。逆である。私たちは所詮絶対的な根拠というものを得ることが出来ないという話をしているのである。だから最後の最後、究極の所はなにかを信じるしかないと言いたいのである。おそらく、科学は私たちが最も信じるべきものである。少なくとも万有引力の法則は今まで私達を裏切ったことはない。とにかく私たちは宇宙の斉一な秩序を信じて生きていくしかないのである。

 どんな思想も最終的な根拠というものが「信じる」ということに支えられているということは憶えておかなくてはならない。現実の社会ではそのためにいろんな齟齬が生じてくるのである。ちょうど一年前にアメリカのキャピトル・ヒル(国会議事堂)に暴徒が乱入する騒ぎになった。民主主義のチャンピオンを自認していたアメリカでこのような事件が起こること自体がちょっと信じがたい話だが、昨年10月にキニピアック大が行った世論調査では、民主党支持層の93%が「事件は政府に対する攻撃だ」と答えたが、共和党支持層では29%にとどまったという。共和党支持者の間ではこの事件を民主主義に対する挑戦であるとは見ずに、「民主党や大手メディアが事件を政治利用している」という不満が渦巻いているらしいのだ。

  一昨年の米大統領選挙では、トランプ側が選挙に不正があったとして訴訟を乱発した。そのほとんどが根拠のないものでことごとく却下されたが、トランプ支持者にとってはおびただしい訴訟があったこと自体が不正の根拠になるらしい。モンマス大の11月の世論調査では、共和党支持層の73%の人が「バイデン氏の勝利は不正によるものだ」と信じているという。何十件もの訴訟がことごとく門前払いを食わされていれば、普通は訴訟する側の姿勢が疑われてしかるべきだと思うが、人は信じたいものを信じるということなのだろう。インターネットが拡張された世の中になってこのような傾向はますます顕著になってきている。ネットの中には信じたい情報があふれているからだ。そのほとんどがゴミみたいな情報であったとしても、信じたい人間にとってはそんなことはなぜか問題にならない。

 最近、武蔵野市議会において外国籍の人の住民投票への参加が話題となった。住民投票というのは、あくまで行政側が住民の意見を問うもので法的拘束力はない。よりよい街をつくるためには一人一人の住民の協力が必要なのであるから、外国籍であろうと何であろうとその土地の住民であれば、その意見を聞くというのは当たり前のことではないかと思う。なのに、インターネット上では、外国人による日本乗っ取りの道を開く式のコメントが横行する。いわゆるネット右翼が見当はずれの意見をコピペして拡散するのである。周りの雰囲気に流されるというのが良くない日本人の傾向である。表向きには社会の多様性や寛容性が大事であるとかよく言う、しかし現実的には狭量で排他的な意見に引きずられやすい。「外国人に日本が乗っ取られる」などというありもしない幻想をやすやすと受け入れてしまうのである。

 どのような信念を受け入れるべきかということを簡単に言うことは出来ないが、それに基づいて行動する以上必ず責任がつきまとうことを忘れてはならない。自分なりの正当性の基準について熟慮する必要がある。

横浜 たそがれ時の中華街
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする