先日、「仏弟子の世間話」という本を読んだ。臨済宗僧侶で芥川賞作家でもある玄侑宗久氏と小乗仏教の大家であるスナマサーラ師の対談を本に起こしたものである。その中でスナマサーラ師が、般若心経の「空即是色」は間違いであると主張していることを知り、ははぁと思った。近頃インターネット上で「空即是色」が話題となっている。これがその源かと合点がいったのである。
非信仰者としての気楽な立場から言うと、スナマサーラ師の言っていることには説得力を感じた。おそらく指摘されていることは正しいような気がする。仏典はいろんな人の手を経ている。それぞれの書き手がみな素晴らしい見解の持ち主とはいかないだろうと思う。それらを哲学論文として読むならば、おそらく矛盾だらけということになるに違いない。
しかし、聖典としての仏典は、いろんな解釈が積み重ねられてきた歴史というものがある。般若心経にしてももしかしたら、原著者の意図を超えたものとして解釈されている可能性がある。各経典は実際に多様な解釈がなされてきたわけで、それが各宗各派に分かれるもとともなっている。スナマサーラ師の属する小乗仏教の立場から見れば、般若心経が間違っていると見るのは当然なのだろう。もっともスナマサーラ師は信仰としての大乗仏教を批判しているわけではない。あくまで学術的な立場から般若心経を解説している学者に対しての批判であることに留意すべきである。
禅宗などでは経典の意味を文献学的に追究しようという姿勢はもともとない。むしろ、自分の体得した境地に沿ってお経を解釈しようとする傾向が強い。そういう意味では聖典に間違いなどあるはずがないのである。
「色即是空」というのは、「あらゆるものごとは実体をもたない」という意味で、「だから、なにごとも執着してはならない」という。これは大乗であろうと小乗であろうと仏教であるならば、みな一致している。
「空即是色」については、もしかしたら本当に原著者は語呂が良いから並べただけかもしれない。(そして、スナマサーラ師はそのように指摘している。) しかし、ここで禅宗などは一歩踏み込んだ解釈をするわけである。
「色即是空」と言いっぱなしでは、「すべてはまぼろし」と解釈する向きも出てくるだろう。釈尊は「ものごとに執着するな」といったが、「無視するな」と言ったわけではない。炎の中に手をかざして、「熱くない」と言ったらそれは悟りであるどころか離人症であろう。あくまで我々は現実の中に生きる存在者なのである。
現実は現実として認識する。「柳は緑、花は紅」というのはあるがままの現実を受け入れるという意味である。禅宗ではこれを「空即是色」に結び付けているのである。(と、私は解釈している。) 色即是空と空即是色が同時に成立している、そこに中庸があるのである。
最後に一つだけ、スナマサーラ師に反論しておきたい。
師は、「人は皆死ぬものである」が「死ぬものはすべて人である」とは言えない。「空即是色」というのは「死ぬものはすべて人である」と言うのと同じだというのである。つまり、「色=空」を否定している。色は空であっても、空は色ではない。色<空ということであろう。
しかし、「色」というのはわれわれが認識しうるものすべてを意味するのである。であるから、空であって色でないものがあったとしても、我々には認識できない。認識しえないものについて我々は言及することはできない。「色=空」としても何の不都合も生じないというのが私の考えである。
( 鎌倉 覚園寺 )