禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

ヴァーチャル・リアリティ(仮想現実)

2020-12-31 12:04:48 | 哲学
 最近、「ヴァーチャル・リアリティ」という言葉をよく耳にする。特殊なゴーグルをつけると、現実にはそこに無いものをまるで本当にあるかの如く見えるらしい。本物ではないが本物らしく見えるということで「仮想現実」という訳語が当てられている。バイノーラル法式で録音された音をヘッドホンで聴くのは、音のヴァーチャル・リアリティと言ってよいだろう。それと、物を触ったときの感触を得られるようなグローブもあるらしい。眼耳鼻舌身意のうちの眼耳身が揃うとよりリアリティは増す。
 この技術を福島原発の廃炉作業に応用できないだろうか。原子炉内は放射線量が高くて人間はとても入れないが、カメラと高性能なマジックハンドを持ったロボットがその中で作業するのである。オペレーターはロボットのカメラとつながったゴーグルをして、マジックハンドと連動するグローブとギプスを手と腕につける。そうすると、オペレーターはさも原子炉内に居るかのような臨場感を得る。マジックハンドはオペレーターの腕と手の動きと連動しており、ものに触れたときはセンサーがその手ごたえをオペレーターに伝える。
 そうなるとオペレーターはまるで自分が原子炉内に入り作業しているような現実感を得るはずである。ここまで行くと、これを仮想現実と呼んでもよいものだろうか? 彼が得ている現実感に対応する現実があるという意味では紛れもなく彼は現実の中にいるのではないだろうか? 「自分の手」と言っても切断すれば、それは自分のものとは別の物体である。いわばよく出来たマジックハンドを肩につけているようなものである。オペレーターはグローブとギプスをはめたことにより、もともとの肉でできたマジックハンドを原子炉内のロボットのマジックハンドまで延長しただけである。視覚についても同様のことが言える。眼の位置を原子炉内に変えただけである。
 よくよく考えてみれば、もともと私たちは物自体にじかに触れているわけではない。世界はもともと無色無音である。電磁波が私達に色を見せ、空気振動が音を聞かせると説明されているが、大脳生理学によればそれらの色や音は我々の感覚器官が作り出したものだということになる。だとすれば初めからすべては仮想現実だと言えなくもない。
 
この美しい富士もある意味仮想現実である。
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ライオンとコミュニケーションできるか?

2020-12-28 14:15:14 | 日記
 もしライオンが人間並みの知能を持っていて、人間の言葉を覚えたとしたら人間と会話できるだろうか? 大方の哲学者はたぶんできないだろうと言う。同じ言葉を使用したとしても互いに生活習慣が違い過ぎるというのだ。
 私は、日曜の夜に放映されている「グッド・ファイト2」というアメリカのドラマを見ている。法律事務所を舞台とするお話しなので、結構面白いのだがなんとなく話のすじみちがつかみにくい。訳が分からないまま見ているということがよくある。日本語吹き替え版で見ているので一語一語の言葉が分からないわけではないが、ストーリーをきちんと追えないことがままある。私の頭がとろいということもあるのかもしれないが、扱われている題材が法律に関することで、極端な訴訟社会であるアメリカの事情が日本に住む私の生活とかけ離れ過ぎているからだろう。
 一語一語の言葉は理解できても、生活習慣が違い過ぎると何を言っているのか分からないということあることが腑に落ちた。同じ人間同士でも分からないことがあるのだ。人間とライオンでは到底コミュニケーション出来ないというのは本当のことだと思った。

サンタモニカ・ピア (ロサンジェルス) 本文記事とは関係ありません。
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鬼滅の刃

2020-12-25 06:03:19 | いちゃもん
 なにを隠そう私はかつてマンガ少年だった。マンガ雑誌がまだ月刊誌しかなかった頃から愛読していた。さすがに最近はマンガから少し遠ざかっているが、50歳台前半までは少年漫画雑誌を毎週自分で買って読んでいた。そんなわけで、私はマンガについてはちょっとうるさい。
 最近、「鬼滅の刃」という作品があまりに世間の評判が大きいので、試しに1~5巻を買って読んでみた。たくさんの人に受ける理由は理解できたが、アクション部分の描き方が洗練されてなくて読みづらいきらいがあるように感じた。あくまで(マンガにうるさい私の)個人的感想だが、作品としての完成度は「ジョジョの不思議な冒険」などと比べるとかなり見劣りするような気がする。
 正義と勇気がマンガの王道であるが、この作品では特に愛する人への献身と自己犠牲が強調されている。この物語がこれほど人々に受けているのは、今の日本にはそれが欠けているからかもしれない。どうも印象としては、ぬるい日常に浸りながら、清冽な純粋さにあこがれているというような感じがぬぐえない。マンガの中では、愛や正義のために自分の命などは顧みないが、現在の日本で、そのような主人公に自分を重ねることができるのはとても不思議なことだと思う。
 考えてみても欲しい。公文書の改ざんをさせられて自殺した人がいるのに、誰も真実を内部告発する人がでてこない。酔いつぶれた女性にわいせつな行為をして逮捕状まで出ていたのに、首相の友達なら無罪放免。私は長い間フリーランスで様々な会社の下請けをしてきたが、小さな権力でも持てば人はやたらそれを振り回したがる、そういう人を沢山見てきた。それが日本の現実だ。マンガの中にだけ過剰な正義がある。
 愛や正義を情緒的に受け止めるだけではだめだと思う。現実の中で、自分がどのような態度決定をするのか、そういう哲学が必要なのだと思う。
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私達は絶えず何かを信じている

2020-12-22 11:41:20 | 哲学
 私たちは常に何かを信じて生きている、それも確実な根拠もないままに。それは間違いのないことである。幼い頃は両親の言うことを信じていたはずだ。学齢期になれば先生の言うことを信じていたはずだ。もちろん皆が皆そういう訳ではなかっただろう、中にはでたらめな親もいればトンデモな教師もいる、しかし信ずべき人が信じられない子供は息苦しい時代を生きなければならない。大抵の人は人それぞれにある種の権威をよりどころとして信用するのである。
 どんな民族にも科学が未発達な時代にはシャーマンがいた。子供が病気になればシャーマンに見てもらう。日照りの時はシャーマンに雨乞いの祈りをささげてもらう。そうすれば、実際に子供の病気は治るし雨も降るのである。現代の人は、子どもの病気が治ったのはプラシーボ効果だと言い、晴れが続けばいつかは雨が降るなどと言うが、昔は本当に呪術の力というものは存在したのである。信じたとおりのことが起こればそれは真実と言うしかない。強大な自然の中でちっぽけな人間が力強く生きていくためには、そういう信念が必要だったに違いない。そういう意味で、シャーマニズムは人間にとっては普遍的である。
 そうはいっても、何でもかんでも信じて良いというものではない。現代において、シャーマンを名乗るような人は大抵は詐欺師の類と考えた方が良いと思う。ウィリアム・ジェイムスは「人は確実な根拠なしに信念を持つ権利がある」と言うが、それはその人にとって重要で切迫した問題において有用な選択に資するものでなくてはならない。古代においてシャーマニズムは人間が自信をもって力強く生きていくために無くてはならなかったものであったが、現代ではそれは科学にとってかわられたからである。シャーマニズムは子供の病気を治した(こともある)、雨を降らせた(こともある)というような実績の上に信じられたわけだが、科学はより緻密で広範な信憑構造の上に成り立っている。現代人は科学を信用すべきだろう。
 では、科学は確実な根拠を持っているのだろうか? 哲学的にはなかなかそうも言えないのである。18世紀のイギリスの哲学者ディヴィド・ヒュームが「人間本性論」という論文の中で、「確実な知に人間本性が達することが原理的に保証されていない 。」というショッキングなことを表明した。つまり、人間は絶対的な真の知識に到達できないということである。これには当時の哲学者は皆衝撃を受けてしまった。カントもその一人で、「純粋理性批判」を著したきっかけはヒュームの「人間本性論」であることを表明している。しかし、カントを含め今までにこの「ヒュームの問題」を正面から乗り越えた哲学者はいないのである。
 たいていの人は科学は絶対正しいのではないかと思っているのではないだろうか。しかし、哲学者の言う「絶対」の条件はとても厳しい。科学は「自然斉一説」というものを前提としている。同じ環境で同じ条件を与えれば同じ現象が起こるというのが自然斉一説である。だから、ある法則について実験の再現性が確認できればその法則は正しいとされる。が、ヒュームはこの自然斉一説には論理的根拠がないというのである。例え1万回実験を繰り返し同じ結果を得られたとしても、1万と1回目に違う結果が出ないとどうして言えるのか? と言うのである。言われてみればその通りである。過去の実績をもとに未来を予測するという意味では、シャーマニズムも科学も同じ原理に基づいている。科学を信じるということは原理的にはシャーマニズムを信じるということと同じなのである。
 1万と1回目に違う結果がでる可能性はある。論理的にはその通りである。しかし、ここで1万回の実績のある法則を捨ててしまうのは明らかにばかげている。どのみち、私たちは「確実な」知に到達することは原理的に不可能なのである。ここでは、その法則を信じる権利がわれわれにあると考えるべきだろう。明らかにそれを信じることは、我々が力強く生きていくうえで有用だからである。


御宿海岸(記事とは関係ありません。)
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信念の正当化

2020-12-19 10:37:52 | 哲学
 前回の「人には信念を持つ権利がある」という記事に対して、ある人から「信じる者は救われるということか」という感想を頂いた。これは私の表現力の問題かもしれない。ジェームスはおそらく彼の真理観について述べているのであって、もし一生涯変わらぬような信念を持つことができれば、もうそれを「真理」と表現してもよいのではないかというような積極的なニュアンスがあると私は思う。それを「信念の正当化」というのではないだろうかと私は考えたのである。
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