テーブルの上にリンゴが置いてあると、普通は「そこにリンゴがある。」と私たちは言う。そして、「そこにリンゴがあることを知っている。」とも言う。しかし、こんな当たり前のことについて、哲学者という人たちは、「私たちは本当にそこにリンゴがあることを知っていると言えるのか?」と問うのである。
「そこにリンゴがある。」と言えるためには、「そこにあるのがリンゴではない」という論理的可能性がすべて排除されなければならない、哲学者はそう考えるのである。
リンゴだと思ったのが実はプラスティックの置物だった、と言うことはあり得る。が、まあその程度の論理的可能性は触れて確認すればすぐ排除できる。だが少し考えてみればわかることだが、それがリンゴでないという論理的可能性をすべて排除するというのはどうあっても不可能なのである。
デカルトが提示した例でいうと、「今私は夢を見ているのではないか?」という可能性を否定できないのではないかということがある。いかに目の前のリンゴがありありとしていても、これが夢でないという保証はない。残念ながら、自分が現(うつつ)であることを私たちは積極的に示す方法を持ちえないのである。
「いや、これが夢であるかどうかが私にはわかる、夢ならこんなにはっきりとしているわけがない。」とあなたは抵抗するかもしれない。
それならと、ヒラリー・パトナムという哲学者は「培養液の中の脳」というアイデアを考え出した。実は私は培養液の中に浸された脳で、高性能コンピューターと電極でつながれている。その電極を通して、今見ているビジョンを与えられているのではないか、という可能性があるのではないかということなのだ。仕組み的に、「夢を見ている」可能性と同型であって、これもなかなか排除できそうにはない。
この懐疑論というのは一見バカバカしい話なのだが、哲学においては結構大きなテーマで、天才たちが膨大なエネルギーを投じてきた問題なのである。いろんな『知識理論』なるものが発表されてきたが、いまだに哲学的懐疑を正面から乗り越えたものは誰もいない。
前置きが長くなったが、禅ではこの問題をどのように取り扱うのだろう?
答えは簡単である。問題は存在しない、ということである。
仏教ではもともと「一切皆空」と言っている。厳密な意味での「リンゴ」あるいは「リンゴの実体」というものはもともと存在しない。この世界のあらゆるものにその根拠を求めることはできない、という諦観が禅にはあるのである。華厳的にいうならば、「リンゴはリンゴに非ず、これをリンゴと言う」である。だから、初めから厳密な『知識理論』と言うようなことは問題にはならないのだ。
では、テーブルの上のリンゴをみつけても、「そこにリンゴがある。」と言ってはならないのだろうか?
そうではない。テーブルの上のリンゴ、それは空であるとは言っても、ありありとした現実であることに違いないのである。否、根底が空であると達観すればむしろ実体に対するこだわりはない、今見ているリンゴそのままが「実在」であるという思いは強くなるのである。西田幾多郎の「善の研究」における「意識現象が唯一の実在である。」という言葉もこのような文脈の中でとらえるべきである。
たとえ今自分が夢を見ているだとか、自分が培養液の中の脳で今見ている光景がバーチャルなものであるとかいうのは、自分のある世界を俯瞰してみて初めて分かることである。つまり自分(というものがもしあるとすれば)、自分を他者の目から見ないと判別できない。そのような視点は禅者にはない。禅者はあくまで実存的な視点しか持ちえないのだ。自分であるとか他者であるとか、あるいは今夢を見ているとか、これはバーチャルであるとか、それらの見解はすべて推論の上に成り立っているに過ぎない。
今見ている光景の背後に隠された「真実」を探るのが科学であると考えられるが、禅においてはそのような推論の上に構築された虚構を「真実」とは呼ばないのである。見たそのままが「真実」である。そこに何も隠されているものはない。師家が「特別なことは何もない。すべてがあらわになっている。」と言うのはそういうことである。
空と言うのはいわば否定であるが、一旦否定を通してからこのありありとした現実を再評価するところに玄妙さが生まれる。「柳は緑花は紅」、「眼横鼻直」とは当たり前を強調するする言葉であるが、この当たり前が真実であるというところに仏教の妙味がある。
だから、テーブルの上のリンゴをみつけたとき、あなたは「そこにリンゴがある。」と言って良い。「そこにリンゴがある。」という言葉はまさにそういう時に発する言葉であり、その言葉の意味はそのような状況を指すものであり、それ以上でもそれ以下でもないのである。