禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

モラルは実在するのか?

2020-01-31 22:19:36 | 哲学
 新実在論者のマルクス・カブリエルは「モラルは実在する」と断言する。「子供を拷問する権利などというものは存在しない。(そんなことして良いはずがない。)」と言うのだ。そう言われてみれば、納得するしかあるまい。子どもを拷問するということに対する嫌悪感には確かに普遍性があるような気がする。しかし、世界には10才にも満たない子が学校へも行かせてもらえず働かされていたり、いたいけな少女が性奴隷として売り買いされている現実が少なからずある。そういうことを子供に強いることになんら痛痒を感じない大人もいるのである。もしかしたら、子どもを拷問することに快感を感じる大人もいるかもしれない。
 そう考えると、「実在するモラル」というのは、一般的な人間の傾向性に支えられているに過ぎないということになるのだろうか?  ひと頃、「なぜ人を殺してはいけないのか?」という議論が巻き起こったことがある。多くの人々が人間の不条理さに不安を感じているからだろう。モーゼの十戒のように、明確な言葉で霊的な石板にはっきりとモラルが刻まれていて欲しいという願いがある。自分がそのように感じているなら、すでにモラルは実在しているとしても良さそうだが、人間は自信が持てないのである。良しとする生き方と欲望に常に引き裂かれながら生きている、不完全で不条理な存在だからだ。だから、神さまからはっきりと「殺すな」と言ってもらいたいのである。
 キリスト教徒なら神様からそう言ってもらえるから問題はない。では、神さまをもたない仏教徒はどうすればよいのか? 虚心坦懐に自分の胸に聴いてみるしかないだろう。
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無知の力

2020-01-30 10:12:11 | 政治・社会
 時々テレビの国会中継を見ている。ここでは日本全国から選び抜かれた選良が議論を闘わせている。一人一人が何十万もの人々を代表している選りすぐりの人たちだから、さぞや高度な見識が交わされているに違いない、と本来はそのように想像されても不思議ではない。が、ところがである、信じられないほど低レベルな舌戦が繰り広げられている。本当に出来の悪い笑い話レベルなのだ。

 ( 以下、朝日新聞デジタルより引用 )
≪ 首相の地元事務所名で、同会を含む観光ツアーへの参加を募る文書が地元有権者に送られていた問題で、共産党の宮本徹議員が文書を示しながら「この文書は見たことがなくても、募集していることはいつから知っていたのか」と追及した。すると、首相は「私は、幅広く募っているという認識だった。募集しているという認識ではなかった」と述べた。 ≫
 
 「募ったが募集していない」 一体どういう意味だろう‥‥。こんな言い方を許せば、言葉はほとんど意味をもたない。「もらったが受領していない」、「男だが男性ではない」、「歩いたが歩行はしていない」と言っているのと同じである。あまりと言えばあまりなのだが、国会の中では事程左様に言葉が軽いのである。これはたまたまその極端な例に過ぎない。政府や役人の答弁はほとんど聞かれたことには正面から答えないで、用意された当たり障りのない文章をオウムのように繰り返す。話がかみ合っていようがいまいがお構いなしである。
 首相主催の「桜を見る会」の招待者名簿の廃棄について、電子データを廃棄した時期が分かるログの開示を求められると、セキュリティー上の問題から開示できないという。 なぜ、Why? ただ、何月何時何分に誰それの権限で削除されています、と言えばいいだけのことが言えない。おそらく、名簿を要求された時点では、実際は消されてなどなかったのである。ただ、コンピューターログという物理的証拠の内容についてだけは嘘を言うことだけはできない。だから何が何でもここはとぼけるしかないのだ。 だから、「悪意ある第三者等による、不正侵入や不正操作等を検知するための重要な材料になる。」などと言う。おそらく、言っている本人も自分が何を言っているのか分かっていない奇妙なへ理屈になるのである。
 
 国会ではどんな屁理屈であろうが、強引に言ってしまったもの勝ちなのだ。その最終形が「募ったが募集していない」である。安倍総理は昔から勉強はあまり得意ではなかったみたいだが、議論には強いということには自信を持っていたそうである。自分でも「議論に負けた事はない。」と豪語していたそうだ。なるほど、どんなに論理破たんしていても自分ではそれが分からないのだから負けるはずがない。無知であるが故の強みとでも言えばよいのだろうか。残念ながら、いまの日本の国会ではその無知の力が通用するのである。ソクラテスは「無知の知」ということを言ったが、わが国では、「無知の無恥」が横行している。
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生と死の境界はあるか?

2020-01-28 12:05:26 | 哲学

 一般には脳波が出ているかどうかが判断の基準になっている。つまり脳が停止したら死んでいると見做す。医学的な生死の境界はそのように定義されている。まあ、他人の生き死にについてはそれでいいとして、禅的哲学では他人事にはかかわらない、生と死の境についても自分のこととしてとらえなくてはならないのである。自分から見た自分の生死というものは一体いかなるものか?

 子供の頃、親せきの高校教師をしているおじさんに、「生きているって、どういうこと。死んだらどうなるの?」と訊ねたことがある。おじさんは「生きているというのは、こうしていることや。」と言う。ぼくは「こういうことってなんや?」と聞き返す。「つまりやな。お前がこうしてワイとしゃべっていることとか、カレーライスを食べて美味いとおもうこととか、勉強は面白いとかつまらんと思うこととか、とにかく全部や。全部が生きてるちゅうことや。」 

 もし、おじさんの言うことが正しいということであれば、麻酔中の私は生きていると言えるのだろうか? というのは、私は今までに全身麻酔を受けた経験が3度あるのだが、その経験から言えることは、麻酔をかけらるとその間の時間の経過が分からなくなるからだ。かけられた瞬間に意識を失い、その次の瞬間にはもうろうとした状態からだんだんと覚醒してくるのであるが、その時にはもう手術が終わっているのである。後で聞いてみると、手術には7時間もかかったというが、私にはたった数分間のできごとのようにしか思えない。この7時間というのは私は生きていなかったということなのだろうか? おじさんの「生きているというのは、こうしていることや。」という「こうしていること」がほぼなくなることを、私は麻酔を通して経験したのであるが、全く無くなった状態のことを思い出すことはできない。

 言いたいのは、おじさんの言う「こうしていること」には濃度または強度というものがあって、だんだんそれが希薄になりやがては全く無くなってしまう、一般的にはそれが「死」であると考えられているのではないかということである。だとしたら、生と死の間に明確な境界というものはあるのだろうか? 少なくともそれを認識することはできなさそうである。そして今生きている人は誰もそれを経験した人はいない。つまり、我々は自分の死というものを意識の希薄さの延長として把握しているだけである。自分の死そのものを直観できる人はいない。哲学として「死」そのものを語るにはそのことを十分わきまえておかなければならないと思う。

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無記と仏教的諦観の関係

2020-01-27 08:14:27 | 仏教

 疑似問題というものについてもう少し考えてみよう。「世界はなぜあるのか?」という問いを我々はなぜ発するのだろう。問いというものが答えを求めるものであれば、問いを発する以上は自分が何を求めているかを知っていなければならない。しかし、この問いを発する時、私は自分がどのような答えを期待しているか分からないで発しているのである。そもそも私は「世界がない」という状態がどのようなものであるかを想像できないまま「なぜあるか?」を問うているのである。ウィトゲンシュタインに言わせれば、この時私は自分で自分が一体何を問うているか分からないままなにかを問うていることになる。つまり、「世界はなぜあるのか?」という問いに実質的な意味はないということになる。

 それでも問いたくなるのは、私が暗黙の裡にライプニッツの充足理由率を受け入れているからであろう。 

  「どんなことにも、そうであって、別様ではないことの、十分な理由がある」 

 充足理由率を受け入れていればこそ、我々はこの世界を秩序だって理解できる。それがなければ因果律も受け入れることはできず、科学というものは成立しない。しかし、充足理由率の適用範囲は、既に現に存在している事実間の関係性に限られるのであって、決してあらゆることに及ぶわけではない。既に存在してしまっているこの世界の根拠や私の実存については問うことはできないのである。 それを無記と言う。

 どんなことにも理由があるのならすべては必然でなければならない。しかし、それにしては、この私の実存は分からなさすぎるのである。サルトルの「嘔吐」の主人公ロカンタンは、あるときからこの世界のあまりの偶然性に気づき不安を感じるようになる。この世界の一つ一つの事象に納得がいかなくて、終いにはマロニエの根っこを見ただけでそのグロテスクさにおびえ、吐き気を感じるようになってしまう。 その不安はこの世界の摂理を求めようとしても求められない、その絶望にある。

 仏教における無常とはこの世界の偶然性のことである。この世界には根源的理由などない。その理由のなさに納得することを「仏教的諦観」と言う。諦観は単なる諦めではない、いわば実存の究極的根拠に対する断念の哲理である。現実存在に比較しうるものなど実ははじめから何もなかった、私は決して他の様ではあり得なかった。そのことは空観を得て初めて納得できるのである。

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運命論と自由と責任

2020-01-23 11:11:24 | 公案
 ひと頃、機械論的運命論というものが流行ったことがある。この世界の全ては原子とか素粒子というものでできていて、それらが物理法則に支配されているかぎり、すべては物理法則に従って変化する筈である、という考えである。人の精神もすべて脳内の物理現象に還元されてしまうので、人間には本当の自由などというものはなく、すべての運命は物理法則によって決定されている、と言うのである。だとすると、我々は自分が自由に行動しているつもりでも、それはあらかじめ決定されていて、実は機械のように動いているだけだという事になる。そこにはもう自由意志などというものはない、何をやるにしてもあらかじめ決まっていたことをなぞっているだけなので、何をやってもそこに責任などというものはないという事になる。

 量子力学という分野の不確定性理論というものができてからは、どうやら運命は決定していないのではないかという話になっているらしい。超ミクロの世界では粒子の運動は厳密に確定されることはなく、確率論的なのだという。だから「未来は決定していない」のだと言うのである。しかし、この話はあやしい。我々の意志決定が確定しているわけではなく確率論的である、と言われたところで物理法則に従っているだけであるという事には変わりがない。

 禅的哲学ではこの問題をどのようにとらえるか? 禅的視点というものはつねに「只今即今」というところから出発する。現前する現実が唯一の実在である。先日採り上げた記事でも述べたように、「理論があって現実があるのではなく、現実があって理論がある。」と考えるのである。我々の目の前には既に差し迫った現実が現前している。その現実を前にして「われわれの運命は決定されている」などと他人事のようにのたまう運命は禅者には課せられていないのである。もしあなたが機械論的運命論を信じているとしたら、それは気の毒な運命であると言うしかない。

 私は科学が間違っているというようなことを述べているのではない。科学はある意味で正しいのである。確かに私たちは因果というものを昧ますことはできない。どうしようもない宿業という考え方も仏教にはある。ある意味において、私たちは責任を問われることもないのである。しかし、我々個人はつねに実存的生き方を問われる存在者でもある。無門関第二則「百丈野狐」 の真底はそういうところにある。 
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