一般には脳波が出ているかどうかが判断の基準になっている。つまり脳が停止したら死んでいると見做す。医学的な生死の境界はそのように定義されている。まあ、他人の生き死にについてはそれでいいとして、禅的哲学では他人事にはかかわらない、生と死の境についても自分のこととしてとらえなくてはならないのである。自分から見た自分の生死というものは一体いかなるものか?
子供の頃、親せきの高校教師をしているおじさんに、「生きているって、どういうこと。死んだらどうなるの?」と訊ねたことがある。おじさんは「生きているというのは、こうしていることや。」と言う。ぼくは「こういうことってなんや?」と聞き返す。「つまりやな。お前がこうしてワイとしゃべっていることとか、カレーライスを食べて美味いとおもうこととか、勉強は面白いとかつまらんと思うこととか、とにかく全部や。全部が生きてるちゅうことや。」
もし、おじさんの言うことが正しいということであれば、麻酔中の私は生きていると言えるのだろうか? というのは、私は今までに全身麻酔を受けた経験が3度あるのだが、その経験から言えることは、麻酔をかけらるとその間の時間の経過が分からなくなるからだ。かけられた瞬間に意識を失い、その次の瞬間にはもうろうとした状態からだんだんと覚醒してくるのであるが、その時にはもう手術が終わっているのである。後で聞いてみると、手術には7時間もかかったというが、私にはたった数分間のできごとのようにしか思えない。この7時間というのは私は生きていなかったということなのだろうか? おじさんの「生きているというのは、こうしていることや。」という「こうしていること」がほぼなくなることを、私は麻酔を通して経験したのであるが、全く無くなった状態のことを思い出すことはできない。
疑似問題というものについてもう少し考えてみよう。「世界はなぜあるのか?」という問いを我々はなぜ発するのだろう。問いというものが答えを求めるものであれば、問いを発する以上は自分が何を求めているかを知っていなければならない。しかし、この問いを発する時、私は自分がどのような答えを期待しているか分からないで発しているのである。そもそも私は「世界がない」という状態がどのようなものであるかを想像できないまま「なぜあるか?」を問うているのである。ウィトゲンシュタインに言わせれば、この時私は自分で自分が一体何を問うているか分からないままなにかを問うていることになる。つまり、「世界はなぜあるのか?」という問いに実質的な意味はないということになる。
それでも問いたくなるのは、私が暗黙の裡にライプニッツの充足理由率を受け入れているからであろう。
「どんなことにも、そうであって、別様ではないことの、十分な理由がある」
充足理由率を受け入れていればこそ、我々はこの世界を秩序だって理解できる。それがなければ因果律も受け入れることはできず、科学というものは成立しない。しかし、充足理由率の適用範囲は、既に現に存在している事実間の関係性に限られるのであって、決してあらゆることに及ぶわけではない。既に存在してしまっているこの世界の根拠や私の実存については問うことはできないのである。 それを無記と言う。
どんなことにも理由があるのならすべては必然でなければならない。しかし、それにしては、この私の実存は分からなさすぎるのである。サルトルの「嘔吐」の主人公ロカンタンは、あるときからこの世界のあまりの偶然性に気づき不安を感じるようになる。この世界の一つ一つの事象に納得がいかなくて、終いにはマロニエの根っこを見ただけでそのグロテスクさにおびえ、吐き気を感じるようになってしまう。 その不安はこの世界の摂理を求めようとしても求められない、その絶望にある。
仏教における無常とはこの世界の偶然性のことである。この世界には根源的理由などない。その理由のなさに納得することを「仏教的諦観」と言う。諦観は単なる諦めではない、いわば実存の究極的根拠に対する断念の哲理である。現実存在に比較しうるものなど実ははじめから何もなかった、私は決して他の様ではあり得なかった。そのことは空観を得て初めて納得できるのである。