「一切皆空」というのは仏教の根本原理であるとされている。前回記事「言葉の拘束力と中庸ということ」では、言葉即ち概念というものは突き詰めれば、恣意的な視点の上に成り立っているということを述べた。ものごとすべては関係性の上に成り立っているのであって、「絶対」ということはないということである。だとすると、自分をある種の高みにおいて相手を批判・評価したりすることにも慎重でなくてはならないことになる。自分を是相手を否とする絶対的根拠も見いだせないからである。また、仏教においては、真善美なるものも縁起の中で相対的に浮かび上がってくるものでしかない。だから、仏教においては、自分の論を主張する論争というものは本来ありえないことになる。「法論はどちらか負けても釈迦の恥」というのはそういうところから来ているのだろうと思う。
小林秀雄のエッセーに、「匹夫不可奪志」というのがある。論語の「子曰'三軍可奪帥也,匹夫不可奪志也。」という言葉からきているとのことだが、「大軍の大将をとらえることはできても、小人の志を奪うことはむずかしい」というような意味らしい。エッセーの一部を引用してみよう。
≪ 自分は悧巧だと己惚れたり、あの男は悧巧だと感心してみたりしているが、悧巧というのは馬鹿との或る関係にすぎず、馬鹿と比べてみなければ、悧巧にはなれない。実に詰まらぬ話であるが、だんだんと自分の周囲に見付かる馬鹿の人数を増やすというやり方、実に芸のないやり方だが、ただやり方一つで世人はせっせと悧巧になる。したがって、馬鹿とは、多かれ少なかれ悧巧に足りないものだという安易な考え方から逃れることがむずかしい。 ≫
よくよく考えてみれば、馬鹿と悧巧の間に境界などないのである。比べてみれば、比較的利巧と比較的馬鹿があるだけに過ぎない。なのになぜか人は自分を悧巧だと思いたがる。他でもないこれは私のことである。自分を悧巧だと思い、時に若者を上から目線で説教したりする。小手先の言葉で匹夫の志を奪うことができると勘違いするのである。
先にあげた一節に続いて、小林秀雄はこうも言っている。
≪ つまり、馬鹿は馬鹿なりに完全であって足りない人間ではないという簡明な事実を合点するチャンスに他ならないのだが、チャンスは逸するのが普通で、すぐ元の無意味な悧巧に立ち戻る。 ≫
「馬鹿は馬鹿なりに完全」という言い方は乱暴だが、小林らしい鋭い着眼点であると思う。要するに、人は誰でも自分の信念や格律に従ってものを言い行動している、という単純なことを言い表しているのである。それはその人が馬鹿であるとか悧巧であるかとは全く関係ないということなのだ。実はこれは当たり前のことだから小林は「簡明な事実」と表現している。その当たり前のことを分かるのがむずかしいと小林は言っているのである。
自分に少しばかり学識があるからといって、相手を見下して匹夫の志を奪おうなどと考えてはいけない。相手もそれなりに信念に基づいてものを言っているのだから、小林の言葉で言うと「完全」なのである。自分も「完全」で相手も「完全」なら、深刻な信念対立となって抜け道はなくなってしまう。
自分を利巧だなどと思って、簡単に他人を諭そうなどと考えてはいけないのだと思う。一切皆空を標榜する仏弟子ならばなおのこと自分を絶対化してはならない。それが中庸ということである。