禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

「なぜそれがあるのか?」という問いに答えてくれる学問は存在しない

2023-01-20 07:16:36 | 哲学
 あるSNSの中で「なぜすべての物質に質量があるのですか? 」という問いかけをする人がいた。確かになんにでも質量がある。質量のないものって何だろう? 映画の映像、音、思考‥‥、いわゆる物体でないものという訳か。逆に言えば、質量のあるものを物質と呼んでいるだけのことではないのだろうか。ひねくれものである私はそういうところに引っかかるのである。問いを発した方は、現代物理学の質量に関係するいろいろな因子について知りたいだけの話かもしれないのだが、「なぜ‥あるのか?」という問い方はもっと根源的なことを問題にしているような響きがあると、私は感じてしまうのである。

 ある一人の解答者によれば、最近の物理学では質量の起源をヒッグス粒子というもので説明しているらしい。ちなみに、ウィキペディアでそのヒッグス粒子というものを調べてみた。一部を下に引用する。

【 ヒッグス機構では、宇宙の初期の状態においては全ての素粒子は自由に動き回ることができ、質量を持たなかったが、低温状態となるにつれ、ヒッグス場に自発的対称性の破れが生じ、真空期待値が生じた(真空に相転移が起きた)と考える。これによって、他のほとんどの素粒子がそれに当たって抵抗を受けることになった。これが素粒子の動きにくさ、すなわち質量となる。  】

専門外の私にはさっぱり分からないが、質問した人はこれで納得するのだろうか? 無知な私にとっては、「質量がある」ということを別の言葉でもっと分かりにくく言い直しただけのように思える。
 
 「リンゴはなぜ木から落ちるのか?」という問いに対して、「それは万有引力があるからである。」と現代では小学生でもそのように答えるようになってしまった。万有引力の法則はニュートンの偉大な発見ではあるが、ここで注意しなければならないことがある。それは、「万有引力があるからリンゴが落ちる」のではなく「リンゴが落ちるから万有引力がある」とニュートンは考えたのだということである。もし、万有引力の法則が物が落ちるということだけしか説明しないものであれば、「ものが落ちる」ということと「万有引力がある」ということは、同じことを別の言葉で表現しただけのことでしかない。万有引力の法則の意義というのは、それが単に物が落ちるということだけではなく、天体の運行も含めあらゆる物体の運動についてそれで説明できることにある。シンプルな法則で複雑に絡み合った現象が統一的に説明できる、それが科学の意義はそのことに尽きるのである。そして「なぜそうなのか?」という根源的な疑問は依然として手付かずのまま残るが、私たちとしてはそのことに納得するしかないのである。

 考えてみれば、この世界は分からないことだらけなのである。根源的なことは何も私たちには分かりえないということは実は初めから分かっている。しかし、ヴィトゲンシュタインはそんなことはちっとも問題ではない、そもそもこの世界があるということこそが神秘ではないかと述べている。
   
 【 神秘とは、世界がいかにあるかではなく、世界があるというそのことである。】 (6.44) ------ 論理哲学論考より 
 
横須賀市 秋谷海岸
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久響龍潭

2023-01-17 12:29:17 | 公案
(この記事は2014年の過去記事の再掲です。)

 無門関第二十八則「久響龍潭」は、唐代の大禅匠である徳山宣鑑が悟りを開いた時の話である。前段と後段の二つのエピソードから成り立っていて、前半は龍潭和尚のもとで見性するくだりで、後半は時間的には逆転するが、その龍潭和尚を訪ねるようになったいきさつについての話になっている。
まず、その後半のほうのくだりから紹介することにしよう。

<< 徳山は金剛経の学者で、南の方に金剛経の教えを広めようとしてやってきた。そこに茶店があったので、団子(原文では点心)でも食べようと思って立ち寄った。以下はその店のお婆さんと徳山のやり取りである。

婆   「あんたの荷物は一体なんじゃ?」
徳山 「金剛経とわしの書いた注釈書じゃ。」
婆  「では聞くがのう、金剛経には『過去心不可得、現在心不可得、未来心不可得』と書かれているがあんたはどの心で団子を味わうのかのう?」
 

これには徳山も黙ってしまった。 >>

公案に出てくる婆さんは油断がならない、おおかた禅の達人と相場が決まっている。過去はもう過ぎ去っている。現在は間もなく過去になってしまう。未来はまだやってこない。それぞれの心などとらえようもない。どの心で団子(原文は「点心」)を味わうのかと問われても、徳山には答えようがなかった。
 
 徳山は龍潭を訪ねて、さっそく参禅をする。そしてその日は暮れて、すっかり暗くなってしまった。龍潭は「もう今日は遅いから帰りなさい」と言う。それではと、徳山は部屋を出たがあたりは真っ暗で足元が全然見えない。龍潭はろうそくに火をつけて、「これを持っていきなさい。」と言う。徳山は「ありかとうございます」と言って、手を差し出した。と、その瞬間、龍潭はろうそくを吹き消した。 徳山は虚を突かれた。そして悟ったのである。なにか知識を得たわけではない。あえて言うなら、「火が消えればあたりは闇になる」という当たり前のことを「発見」したのである。哲学的に言うなら、「実存」と言うことであろうか、自分のいるリアルな世界を強く意識したのだ。この「強く意識」するということが玄妙である。この世界はいわば当たり前の世界だが、当たり前であるがゆえに我々は見過ごしている。徳山は虚を突かれて「ハッ」とした。その「ハッ」と言う驚きとともに、この世界を「再発見」したのである。「当たり前の世界」は驚きとともに再発見されねばならない。だから師家は弟子の虚をつくのである。ろうそくを吹き消したのは、徳山に現前する世界を改めて意識させるための、龍潭の工夫であり老婆親切である。
 
「西洋哲学は必然の王国である。」と誰かが言っていたが、実に言いえて妙だと思う。いわゆる科学的発想と言うのは、今ある状態には必ずその理由があるという前提に基づいている。だから、現前している現象の背後にあるものが真理であると考えがちである。ところが、禅的視点はそれと全く逆で、現前しているものが即真理であると考える。科学などは現前しているものから推論された一種の虚構に過ぎないと見るのである。(これは「真理観について述べているのであって、決して科学を否定しているわけではない。)
 
「過去・現在・未来」という区分は、この現実を科学的に分析するために設けられた。あくまで私たちのいる世界を説明するための言葉(概念)である。しかし、そのような区分によって、徳山は団子ひとつ食えない事態に陥った。これは奇妙な話である。現実を説明するための言葉が逆に現実を説明できなくしている。おそらくそこには何か錯誤があるはずである。
 
(ここのところはひとつ実際に、団子なり大福なりを実際に食べながら読んでいただきたい。)
 
 そもそも、団子を「過去・現在・未来」のうちのどの心で食らうのか、という設問が適切であろうか? もし、その問いに答え得たならば、我々の知識が充実されたと言って良いのだろうか。そんなことを考えるのはばかげたことである。団子を食べたなら、それがどのようにうまいかあるいは固いかやわらかいかということは、食べた本人がつぶさに味わったことである。真理という観点からなら、そこには何らの疑問があるはずはない。全部わかっているのである。あらためて別の言葉で表現しなおす必要はない。どのように味わったかということは、本人が全部知っているのである。
 
 龍潭のもとで悟った徳山は、今なら堂々と婆さんの前で団子を食べることができるはずだ。「どの心で団子を味わうのか?」などという問いにはかまわず食べればいいのだ。そして、「ああ、うまかった。ごちそうさん。」と一言言えばよい。団子は食べればうまい。その当たり前のことをリアルに受け止めることが肝要である。そこには隠された真実、もはやそれ以上説明されるべき真実などというものはない。

(参考 ==> 「公案インデックス」)


コメント (2)
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スピリチュアルについて

2023-01-15 14:15:40 | 哲学
 先日地区センターの窓際で読書していたのだが、隣の私と同年配の男性の読んでいる本のタイトル「『あの世』の本当の仕組み」が目に入ってきた。最近はやりのスピリチュアルとというやつらしい。英語の spirit は日常的には精神とか根性と訳されるが、宗教的には霊魂とか聖霊の意味を持つらしい。で、本来の意味からすれば精神の奥深くのことがらについて扱う分野ということになるのだろうが、「精神 → 非物質 → 科学が及ばないことがら」という連想が働いているのだろうか、超常現象的なことがらをもっともらしい言葉で語るのがこの頃のスピリチュアルなのかなと私には思えるのである。その「スピリチュアル」についてもう一つ引っかかるのが、それが哲学として語る人がいることである。私はこのブログを「にほんブログ村」の哲学というカテゴリーに参加しているが、私から見て明らかにスピリチュアルな内容のものもエントリーされている。

 哲学とはあらゆることについて考える分野でもあるのであまり了見の狭いことは言いたくないが、哲学ではどんなことも明晰な言葉で語られなくてはならないし、その言葉には確かな直観が伴っていなくてはならないと思う。つまり、哲学とスピリチュアルは全く違うと言いたいのである。ところで、

    あの世の仕組みが本当に分かるものだろうか?

 どんな知識もなんらかの形で自分の経験とつながっていなくては本当の知識とは言えない。「『あの世』の本当の仕組み」の著者はどうやら前世の記憶を持つ人らしいのだが、たとえその人が本当のことを述べているのだとしても、それが本当のことだと分かるためには読者の方にも前世に関する何らかの経験とその記憶がなければならないはずである。例えば自分が夢で見たようなことが書いてあるからと言って、それが真実であるとは言えない。想像可能なことであればどんなことでも夢に見る可能性があるからである。「そういわれればそんな気がする」ということと「そう考えるしかない」とは相当隔たりがあるということを理解しなければならない。「そんな気がする」というだけで、「腑に落ちる」と言うべきではない。

 読者評の中に次のような一文があって気になったので取り上げてみることにする。

【 量子論的宇宙観で時空間のない無物質の世界や平行宇宙も視野に入れて読まないと、視点が飛躍しているように感じて理解困難かもしれません。輪廻転生の解釈も新しい視点で説明されていて、私自身は、なるほどと納得できる部分は相当多かったです。 】
 
こんな文章を読むと、量子論の専門家も目をむくのではないかというような気がする。量子論というのは感覚ではとらえることのできない世界を数式で世界を解釈する学問なので、そこから輪廻転生などという込み入った世界をリアルに思い描くのは不可能だと思う。第一「時空間のない無物質の世界」などというものは言葉では言えるが想像することが出来ない。無理に想像しようとしても「変化のない暗黒の空間」を思い浮かべるのが関の山となる。つまり、「時空間のない無物質」という概念として規定できても、その物自体としては想像も認識も出来ないものであるから、その言葉を言っている本人は自分が何を言っているかを承知していないのである。 
 
 どんなことであれそれを信じれば力強く生きていけるというのであれば、横から口を出すのはよけいなことだと思うが、なにを信じても良いというものでもない。あまり信じやすいと統一教会みたいなのに引っかかってしまう恐れがある。どうせ信じるなら、仏教やキリスト教のような伝統のある宗教を信じた方が良いと思う。

美空ひばりの眠る日野公園墓地から横浜市街を望む
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未だに同性愛を犯罪と見なす国がある

2023-01-11 11:11:22 | 哲学
  2022年7月時点で、同性間の性的交渉を犯罪としている国は70カ国ある。しかも、そのうち12カ国は死刑、27カ国は禁錮10年から終身刑、31カ国が禁錮10年未満となっている。(クリックして参照してください==>「性的指向に関する世界地図」
この資料を見ると、死刑などの重罪が課せられるのはイスラム教国が多い。一般的に、同性愛に対する許容度がもっとも低いと言われるのがイスラム教で、プロテスタント系福音派、カトリック、そして主流派プロテスタントが続くと言われている。

 西ヨーロッパや南北アメリカのキリスト教国では同性婚が法律で保障されている国が多いが、これは近年のリベラルな風潮が浸透してきたためで、二十世紀半ばまでは犯罪とされていた国が多かったのである。現在のコンピューターの生みの親でもあるアラン・チューリングというイギリスの超天才数学者をご存じだろうか? 彼は解読不可能と言われたドイツの暗号システム「エニグマ」を解読した救国の英雄でありながら、1952年に19歳の少年との性交を理由に逮捕されてホルモン「治療」を受けさせられている。彼が自殺したのはその2年後である。彼の名誉回復が行われたのはその55年後、2009年9月にイギリス政府が公式に彼に対して謝罪した。映画「イミテーション・ゲーム」を見た人ならこの辺のいきさつはご存じだと思う。イギリスにおいても20世紀までは同性愛は犯罪だったのである。

 「性的指向に関する世界地図』を参照すると同性婚が法的に保障されている国はリベラルなキリスト教国が多いことが分かる。性を生殖の為と位置付ける宗教においては、同性愛は神の意志に背く行為であり明確に犯罪であると規定されていたのである。しかし、どう考えてみても性的指向(嗜好)は当人の責任ではありえない以上、同性愛を背徳と見做す思想は現代のリベラルな考え方とは相いれないのである。同性愛を禁止する規定は逆にそれを法的に保障する規定に書き改められたのである。

 日本などのような仏教国では、宗教的な理由によって同性愛は犯罪とされることはなかった。だが、一般に人は自分に理解できないものを恐れる、それゆえ異質の者は嫌悪され排除されるのである。宗教的な禁忌に触れなくとも、同性愛者が生きづらいことには変わりない。明らかな背徳として規定されていない分、表立って議論されないので陰湿な差別としてそのまま残りやすくなる。リベラルな民主主義国であるはずの日本において、同性婚が市民権を得るのはもっと先のことになるかも知れない。

 もし、神が人間の設計図を書いたのであれば、もしくは人間のイデアというものが存在するのであれば、ヘテロ・セクシャルな人間が範型に沿った正しい人間であり、それに合致しない者は人間として規格外の欠陥品であると言えるかもしれない。しかし、ここのところは仏教的な世界観に沿って、人間というものも無常の世界の中に偶然あらわれたものと受け止めるべきだと思う。それは偶然であるからいろんなバリエーションがあり得るのが当然なのである。

自然は偶然できたゆえに不定形である。(横須賀市 前田川遊歩道)
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中道とはなにか

2023-01-09 17:31:50 | 哲学
 私たちはものに対応して言葉があると考えがちであるが、ソシュールという言語学者は「言語が世界を分節する」ということを言い出した。もともと連続している世界を言葉によって分節し、分節した網の目構造として世界を再構成した上で認識する、それが私たちの知識となる。例えば、虹は何色でできているかということを考えてみればそのことがよく分かる。虹の色の種類の数は民族によっていろいろある。もともと光のスペクトルは連続していて色の分け方というものは恣意的にならざるを得ないのである。

 ソシュールによれば、あらかじめ猫というものがあって「猫」という言葉が生まれたのではなく、「猫」という言葉によって初めて我々は猫というものを認識するようになるということである。つまり、「猫」という言葉はこの世界を猫と猫以外に分節するという機能「しか」持たない。ここで「しか」を強調するのは「猫」という言葉に対応する猫の本質というものが存在しないからである。その根拠は前回記事において、人間と人間以外を区別する客観的な基準は存在しないという説明で既に述べておいた。

 ソシュールの考え方は現代言語学の主流となっているが、大乗仏教の祖である龍樹は1800年前に既にそのことに気がついていた。言語による分節は我々の思考を必然的に、善と悪、真と偽、等と不等、有と無、といった二項対立に追い込むことにならざるを得ない。なので龍樹は「言葉によって本当の真理は表現できない」と言うのである。

 近頃よく耳にする言葉で「LGBTQ」というのがある。レズビアン(Lesbian)、ゲイ(Gay)、バイセクシュアル(Bisexual)、トランスジェンダー(Transgender)、クエスチョニング(Questioning) の略だそうである。ついこの前までは「LGBT」だったのが、何時の間にか "Q" がついている。性的嗜好ををいくらカテゴライズしようとしてもしきれない、生物種の定義が研究が進むたびに増えていくことと同じである。以前も取り上げたことがあるが、朝日新聞デジタルの「子どもたちの人生を救うために はるな愛さんが考える多様性と五輪 」という記事の中のはるな愛さんの言葉をもう一度ここで取り上げてみたい。

 ≪ 私は「トランスジェンダー」と呼ばれますが、その言葉に当てはめられるのはちょっと違うかなという感覚もあります。「LGBT」と呼ばれる人の中でもいろいろなタイプの人がいて、みんな違って当たり前です。4文字ではとても表しきれません。
「LGBT」が表す性的少数者のことを、全部知ることは大変で、私もすべてをわかってはいないと思います。わからなくていいとも思っています。
わからないことをなくすよりも、自分の隣にいる人が、今どうして欲しいと思っているのかを聞ける方がいい。知らなかったり、間違えていたりしたら、それを素直に受け入れる気持ちが大事。一番知らなくてはいけないことは、人のことを決めつけることが、その人を生きづらくさせることだと思います。 ≫

 私たちの理性は何でもかでもカテゴライズしたがる。カテゴライズする、すなわち分類し言葉で規定することが「分かる」ということだと思いがちである。ところが、はるなさんはそんなことは「わからなくていい」と言っている。そして「わからないことをなくすよりも、自分の隣にいる人が、今どうして欲しいと思っているのかを聞ける方がいい。」ととも言う。つまり、その人を既成の概念に当て嵌めるのではなく、その人をありのまま受け入れて共感して欲しいと言っているのだ。言われてみればもっともだという気がするが、実はなかなか言えることではない。はるなさん自身が周囲の偏見にさらされながら苦しんできたのだと思う。生きづらさの中で自分と向き合うことでこのような気づきを得た、それは尊い悟りであると思う。

 人を、世界を、ありのまま受け入れる。それが龍樹の目指す中道への第一歩ではなかろうか。

掘割川(横浜市磯子区) 美空ひばりの生家はこの付近にあった。
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