あるSNSの中で「なぜすべての物質に質量があるのですか? 」という問いかけをする人がいた。確かになんにでも質量がある。質量のないものって何だろう? 映画の映像、音、思考‥‥、いわゆる物体でないものという訳か。逆に言えば、質量のあるものを物質と呼んでいるだけのことではないのだろうか。ひねくれものである私はそういうところに引っかかるのである。問いを発した方は、現代物理学の質量に関係するいろいろな因子について知りたいだけの話かもしれないのだが、「なぜ‥あるのか?」という問い方はもっと根源的なことを問題にしているような響きがあると、私は感じてしまうのである。
ある一人の解答者によれば、最近の物理学では質量の起源をヒッグス粒子というもので説明しているらしい。ちなみに、ウィキペディアでそのヒッグス粒子というものを調べてみた。一部を下に引用する。
【 ヒッグス機構では、宇宙の初期の状態においては全ての素粒子は自由に動き回ることができ、質量を持たなかったが、低温状態となるにつれ、ヒッグス場に自発的対称性の破れが生じ、真空期待値が生じた(真空に相転移が起きた)と考える。これによって、他のほとんどの素粒子がそれに当たって抵抗を受けることになった。これが素粒子の動きにくさ、すなわち質量となる。 】
専門外の私にはさっぱり分からないが、質問した人はこれで納得するのだろうか? 無知な私にとっては、「質量がある」ということを別の言葉でもっと分かりにくく言い直しただけのように思える。
「リンゴはなぜ木から落ちるのか?」という問いに対して、「それは万有引力があるからである。」と現代では小学生でもそのように答えるようになってしまった。万有引力の法則はニュートンの偉大な発見ではあるが、ここで注意しなければならないことがある。それは、「万有引力があるからリンゴが落ちる」のではなく「リンゴが落ちるから万有引力がある」とニュートンは考えたのだということである。もし、万有引力の法則が物が落ちるということだけしか説明しないものであれば、「ものが落ちる」ということと「万有引力がある」ということは、同じことを別の言葉で表現しただけのことでしかない。万有引力の法則の意義というのは、それが単に物が落ちるということだけではなく、天体の運行も含めあらゆる物体の運動についてそれで説明できることにある。シンプルな法則で複雑に絡み合った現象が統一的に説明できる、それが科学の意義はそのことに尽きるのである。そして「なぜそうなのか?」という根源的な疑問は依然として手付かずのまま残るが、私たちとしてはそのことに納得するしかないのである。
考えてみれば、この世界は分からないことだらけなのである。根源的なことは何も私たちには分かりえないということは実は初めから分かっている。しかし、ヴィトゲンシュタインはそんなことはちっとも問題ではない、そもそもこの世界があるということこそが神秘ではないかと述べている。
【 神秘とは、世界がいかにあるかではなく、世界があるというそのことである。】 (6.44) ------ 論理哲学論考より
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