「一切皆空」と言う言葉を「すべては儚いものである、だから執着してはならない。」というふうに解釈する向きがある。「執着してはならない」というのはその通りだけれど、この現実を儚いとか空しいというふうに解釈してしまうのは如何なものか。「空」というのは単に絶対性というものを否定しているだけであって、現実のリアリティを否定しているものでは決してない。
恋人に対して、「君を永遠に愛しているよ。」というのはかまわないと思う。それは単に相手をどれほど好きなのか、ということを誇張して言っているに過ぎない。文字通り、千年後も一億年後も愛し続けている、という意味で言っているのなら単純に勘違いしているのである。当然心変わりすることもあり得るわけである。相手の気持ちは冷めているのに、永遠の恋にこだわっているとストーカーになってしまう。人は自分の思いを絶対視する傾向がある。死んだ息子を生き返らせようとしたり、隣の家の美しい奥さんに横恋慕したりする。「執着するな」というのは、そういうことに対して「頭を冷やして、現実を受け入れよ。」という意味である。
ある仏教を論じているブログで、「仏教はすべてのものは実在しないと説いている。」というようなコメントが投稿されていた。問題は、この人が『実在』という言葉で何を言おうとしているかだろう。私にはなにか神秘的なことを言っているように思えてならないのである。『実在』という言葉を、「自分の意識とは無関係に絶対に存在する」という意味に使用しているなら、それはその通りだろう。
しかし、「実在しない」を「リアリティがない」というふうな意味で用いているなら問題であると思う。恋人とデートしている最中に、「この人はきれいに見えるけれど、所詮糞袋なのだ。」などと思わなければならないのだとしたら、悲しいことだろう。そのような思想を仏教が強制しているのなら、それし罪作りと言うべきだろう。確かに、禅僧は「人間は所詮糞袋だ。」とは言うし、ある視点から見ればそれは正しい。あくまで「ある視点」から見ればの話である。そして仏教はが説くのは、我々は絶対的な視点になど立ち得ることはないということである。「一切皆空」というのはそういう意味である。であるから、自分の恋人の美しさが永遠に変わらないと考えるのは間違っているし、また糞袋であると決めつけてしまうのもいかがなものかと思う。
絶対的な視点というものがないのなら、どういう視点に立てばよいのだという疑問が湧いてくるのは当然である。あえて、どういう視点に立たなければいけないということはない。ただ、「絶対的な視点というものはない」ということを腹の底に据えておく必要がある。その上で、目の前に現前している事実をそのままに受け止めるというのが仏教の趣旨に適っている。「あるがまま」受け入れよ、というのは目の前の現実はリアルなものであるという意味である。
「柳は緑花は紅。眼横鼻直。」と言うのは、決して神秘的なことを言ってはならないという戒めも含んでいる。
目の前に美しい花々がある。これは現実である。( 横浜 山下公園 )