禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

普遍論争と空観 (後篇の続き)

2015-03-15 18:41:07 | 哲学

恐山の住職代理である南直哉さんは曹洞宗のお坊さんで、哲学にも造詣が深く多くの著書を著している。私も彼の一ファンとして彼のブログである「恐山あれこれ日記」を愛読している。彼の哲学は私のような我流ではなく、私も教えられることが多いのですが、たまに披露する独自の公案解釈については違和感を感じることもある。

「イタイ話」(<=クリック)という記事の中で、碧巌録第53則「百丈野鴨子」(<=クリック)の公案を中論の「去る者は去らず」の理論とを結び付けているのだが、これにはかなり無理がある。そもそも中論は哲学者同士の論争の書なのだから、不立文字を旨とする禅にはなじまないような気がするのである。当該記事の中の気になる部分をピックアップしてみよう。

 ≪ 「去るものは去らない」という、ほとんど詭弁のごとき言い方の要点は、たとえば、「彼は歩く」と言葉で表現される事象に関する我々の了解の、原理的な不備を突くことにあります。 ≫

私が思うに、「彼は歩く」と言葉で表現される事象に関する我々の了解には、原理的な不備はない。龍樹もそんなことはみじんも言っていない。龍樹は「去るものは去らない」というような神秘的な表現を肯定しているわけでは決してない。前回記事でも述べたが、説一切有部のように、去る主体と「去る」ということの範型がそれぞれ実在のものであるとするならば、「去るものは去らない」といった矛盾を招来すると言っているだけである。あくまで「去るものが去る」ということは龍樹も認めているのである。

≪ すなわち、この理屈は、言語によって概念化することで成り立つ我々の認識は、縁起する事象そのものを、原理的・不可避的に誤解すると主張しているのです。

 野鴨をめぐる師匠と弟子の問答は、まさにそれです。弟子の言う「野鴨」は、その時まさに「飛んでいる」ことにおいて実存しています。そして二人が見ている「飛んでいった」と了解された運動は、当の「野鴨」の実存の仕方なのです。飛ばない「野鴨」と、それ自体として存在する「飛ぶ」運動がなんとなく結合して、「野鴨が飛ぶ」わけではありません。 ≫

ほとんどの人々は通常は「恁麼」の世界に住んでいて、『縁起する事象そのものを、原理的・不可避的に誤解』したりしてはいない。人々は、「飛ばない『野鴨』と、それ自体として存在する『飛ぶ』運動がなんとなく結合して、『野鴨が飛ぶ』」と考えたりしていない。言語によって日常を過剰に反省する哲学者の方が誤解しているだけだ。言葉は日常的に使われているように使うべきである。

禅僧は哲学者同士の論争に一般の人々を導くようなことを述べてはならないと思う。当該記事に寄せられた一般の方々のコメントを読むと、(私の見るところ、)ほとんどの人が南さんの言ってることを理解できていないというかはっきりと誤解しているように見受けられる。

私は実は、禅仏教の部外者であり、また趣味としての哲学を勉強しているに過ぎないものであります。もし専門家の方がこの記事を読んで不都合な点があれば、ビシビシご指摘していただきたいと思います。

【関連記事】

 ・ 普遍論争と空観 (前篇)

 ・ 普遍論争と空観 (後篇)

 ・ 普遍論争と空観 (後篇の続きの続き)

 

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普遍論争と空観 (後篇)

2015-03-15 10:28:02 | 哲学

二世紀から三世紀にかけて、インドにナーガルジュナという傑出した哲学者が出現した。日本では龍樹菩薩と呼ばれている。大乗仏教のルーツというべき人である。その龍樹が「中論」というおそろしく難しい哲学書(経典)を残しているのだが、その中に次のような一節がある。

≪講談社学術文庫「龍樹」(中村元)P.324より≫
  まず、すでに去ったもの(已去)は、去らない。
  また未だ去らないもの(未去)も去らない。
  さらに〈すでに去ったもの〉と〈未だ去らないもの〉とを離れた
  〈現在去りつつあるもの〉(去時)も去らない。

まことに奇妙な物言いである。すでに去ったものやいまだ去らないものが去らないのは分かるとして、現在去りつつあるものが去らないというのは一体どういうことだろう。

もし何の前触れもなく龍樹がこんな説を主張したのであれば、龍樹は単なる詭弁を弄する屁理屈屋に過ぎない。踏まえておかなければならない前提があるのである。中村元先生は「中論は論争の書である。」と言っておられる。当時の仏教界における説一切有部という学派に対する反論の書だというのである。

その説一切有部はどのようなことを主張していたのかということを簡単に説明すると、「ものが去る」ということが起こるということは、「もの」に対し「去る」という原理が働くことによって起こるのだというのだ。龍樹がこだわるのは、去る主体である「もの」と「去る」という原理が各々それ独自で存在するということを容認できないということだ。

もし、「去る」ということ自体を認めるならば、すでに去ったものはもう「去る」はたらきは働かないから去らない。まだ去らないものも同様である。だが、「去りつつあるもの」に「去る」はたらきがあるということになってしまう。だとすると一つの主体に二つの「去る」はたらきがあることになってしまう。それはおかしい、だから(「去りつつあるものがさるはずがない」、というのが龍樹の言い分である。決して、「去りつつあるものが去らない」と単純に主張しているわけではない。いわば相手の揚げ足を取って、「言っていることが矛盾しているではないか」と反論しているのである。

龍樹はこの世界は関係性によってのみ成り立っていると考えていた。その物自体で存在するものという考え方を容認することはできなかったのである。一切皆空のの立場に立てば、「去る」というのもものとものの関係性によって成り立っているにすぎない。独自に存在する「去る」というはたらきなどありはしないと言いたいのである。

「去る」にもいろいろある。恋人が去る。夏が去る。犬が走り去る。一口に「犬が去る」といっても、具体的に見ればスピードや足の位置、体の姿勢、それらのどれ一つとっても一様ではない。「去る」ことの範型などない、発話者との関係性でそれらをまとめて「去る」と便宜的に表現しているだけのことである。

 もう少しわかりやすい例を示してみよう。例えば静かな池に小石を投げ込んだとしよう。石の落ちた水面から輪になって波が広がっていく。輪の中心から「波が去る」ように見える。しかしよくよく見れば、水の粒子に着目するとその場で上下運動しているだけで、その上下運動が輪状に広がるように伝わっているだけである。要するに、実質的には何も去ってはいない、水の粒子の関係性によって、そのように見えるだけである。去る主体となる波が空なら去る運動も空なのである。注意深く見るとこのようなことはすべてのことに言えることなのだ。善なくして悪はなく、悪なくして善はない。陸なくして海もなく、山なくして谷もないのである。決して山は山としてのあるいは海は海としての自性を独自にもっているわけではない。

すべてのものは無自性である(即ち空である)というのが龍樹の主張である。

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 ・ 普遍論争と空観 (後篇の続き)

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普遍論争と空観 (前篇)

2015-03-14 10:39:38 | 哲学

小林秀雄の有名な言葉に「美しい花がある、花の美しさというものはない。」というのがあるが、哲学の世界では「美しさ」そのものが実在するのかかどうかという議論が長い間続けられてきて、今なお決着を見ないでいる。これを普遍論争という。

「三角形は3本の直線で囲まれた図形である。」というふうに矛盾なく定義できる。この言葉だけで定義されたものを「三角形のイデア」と呼ぶことにする。つまり、それは如何なる具体的な三角形でもない、ただ三角形であるだけの普遍的な三角形という意味である。

「三角形のイデア」があるとする立場が実念論、ないとする立場が唯名論と呼ばれている。どちら側にも言い分があって、突き詰めるとこれは「言葉」の問題になってしまうような気がするのだが、一応私は唯名論的なスタンスでものを考えている。冒頭に挙げた小林の言葉も唯名論の立場ということができる。

「すべての三角形を代表するような普遍的な三角形を思い浮かべよ」と言われたら、貴方はどのようなものを思い浮かべるだろうか? おそらくあなたは何らかの具体的な三角形を思い浮かべたのではないだろうか。どうしても私たちの頭脳は、無限にある三角形のうちの一つの具体的な三角形を思い浮かべてしまうのではないだろうか。

実念論者によれば、オードリー・ヘプバーンが美しいのは、彼女に美のイデアが宿っているからということになる。では、彼女の姿かたちをそのままにして、「美しさ」を抜き取れば美しくなるのだろうか? そうではあるまい、ヘプバーンも富士山もバラの花も美しいが、それらは個別に美しいだけであって、共通の「美しさ」というものを持っているわけではない。「美しさ」という言葉があることによって、ヘプバーンと富士山の間に共通の要素があるように錯覚してしまう。唯名論者はそう主張するのである。

もう一つあげてみよう、もし「人間のイデア」が存在するならば、人間と他の動物には明確な境界が存在することになる。しかし、そのような考えはダーウィンの進化論と著しく対立する。もし最初の人間が存在したとするなら、明らかに彼または彼女は人間以外の動物から生まれたのである。固定化された人間の「範型」というものを考えることは困難である。それは今も変化の途上であり浮遊している。

次回は、この普遍論争が約1800年前のインドの仏教界にもあったということをご紹介したい。

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冷暖自知

2015-03-07 12:11:23 | 哲学

デカルトが「省察」という著書の中で、「熱さは冷たさの欠如か、それとも冷たさが熱さの欠如であろうか。」と述べていたように記憶している。熱さと冷たさが同一尺度の中ではかられるものだということは、経験的に熱さと冷たさを同時に感じることはできないことから、誰にも理解できるだろう。しかし、一方がもう一方の欠如ではないかという発想は、自分ではなかなか思いつかない。甘さの欠如は単に「甘くない」と言うだけのことだし、辛さの欠如は辛くないというだけのことである。通常の感覚の欠如は別の感覚にはならないのである。やはり、デカルトは科学者として傑出した資質の持ち主ではなかったかと思う。

現代の科学知識では、温度は分子のブラウン運動であるとされている。「冷たさが熱さの欠如である」と決着がついているのである。このような知識を積み重ねていくことが、科学的真理の追究ということである。

本日のタイトルの「冷暖自知」とは、水が冷たいか暖かいかは、自分の手で直接触れればわかる、という意味である。そんな当たり前のことをなぜあらためて言うのだろう。それは、科学的真理の追究とは別の素朴な「世界把握」の仕方を忘れてはならないという戒めでもある。

素朴な「世界把握」の仕方とは、仏教におけるいわゆる「あるがまま」ということである。夏の暑い日に冷たい水を飲んで、「ああ、冷たくておいしい。」と感じた。その時、私は飲んだ水の温度についての十全な知識をすでに得ているのである。ブラウン運動云々の知識はしょせん言葉に過ぎない。いくら言葉を積み重ねても、この水の冷たさは変わらない。決して科学を尊敬しないというわけではないが、仏教的世界観は科学的知識によって揺らぐということはないのである。

駅前のドトールで、「うまい水」というボサノバを聴いていると、いい気持になって取り留めもなくこんなことを考えていた。

 話は変わるが、あるところで「温度が分子によるブラウン運動によるものならば、真空は絶対零度なのだろうか?」と問われた。温度とは物質の状態について言う言葉なので、真空についてそれを言うのはナンセンスである。あえて真空中に温度計が浮かんでいたと仮定してみよう。

それが真空中にあるということは、熱伝導の媒体がないということである。したがって熱伝導による温度の変化はない。熱の移動は放射のみである。真空といってもそれを形成する外壁があるはずだから、その外壁と温度計の間で放射による熱交換がある。一定の時間が経過すれば外壁と温度計の温度は同じになって平衡状態となるはずである。 あえて真空の温度を言うならば、その真空容器の温度と言うことになろうかと思う。

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