禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

仏教のゆるやかさについて

2025-02-10 10:39:38 | 哲学
 先日久し振りに友人と会ったのだが、彼が「お釈迦さんが言うてた教えと日本の仏教とは全然別のものと違うんか?」 と言い出した。例えば浄土系の宗派ではやたら念仏と言うけれが、はたして釈尊が実際にそうしたことを説いたのかどうか疑わしいというわけである。禅宗と浄土真宗では線香をたくのと読経するという点においては似ているだけで、中身は全然違う。阿弥陀信仰を説く浄土真宗などは外形的にはむしろキリスト教のような一神教に近いように思える程である。

 仏教という宗教のあり方が緩やかなのは、その原理が無と空であるということに由来するのは間違いのないことだと思う。「無」というのは主体が究極的には存在しないということ、「空」というのはなにごとも固定的な実態というものは存在しないことを意味する。「無」からは我欲というものが実は幻想であり、「空」からはなにごとも言葉によって断定されることがないということが導かれる。 つまり、おのれを空しくし他に優しくするということで既に仏教の必要条件を満たしており、言葉によって他を排斥しないということであれば、それはもうすでに仏教としての十分条件を満たしているのである。

 禅宗では坐禅を通じて自己を内観し、その結果究極の主体としての無に行きつく。その時新たにこの現実の世界が妙に満ち溢れたものとして顕現する、その感動がこの世界への感謝つまり愛となる、それを悟りというのだろう。浄土真宗の場合はひたすら念仏を通じて阿弥陀仏に帰依することによりおのれを空しくするのである。はからいを一切捨てた時、すでに阿弥陀如来によって救われていることを実感する、というのは禅宗の悟りと何ら変わることはない。どちらも釈尊の説く教えに沿っているのである。

 キリスト教はどうか?  新約聖書「ヨハネによる福音書」第1章 の冒頭は「始めに言葉(logos)ありき」で始まっている。 キリスト教は神の言葉である膨大な聖書の言葉のどれもおろそかにはできない。解釈が違えばそれは異端ということになる。過去にはそれが原因の争いで多くの血が流されてきたことは周知のとおりである。言葉はイデオロギーとなる、イデオロギーは争いを生むのである。言葉によるイデオロギーは畢竟臆見を含む、それに固執すれば有無の邪見となるというのが釈尊の説かれる所である。

 仏教においては特に中庸ということを重視する、だから決して異端というものも生まれない。重要なのは人々が幸せであることである。そこに至る径は一本道ではない。最近よく言われるダイバーシティ(多様性)という言葉は仏教ととても相性の良い言葉だと思う。
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私たちは錯覚の中に生きている?

2025-01-31 11:36:58 | 哲学


 先日NHK-BSで放映された「フロンティア 世界は錯覚で出来ている」という番組がとても面白かった。(ちなみに上のタイトル写真は4つの物体を鏡に映した状態の加工無しの実写である。)人間の錯覚やバーチャルリアリティについてのいろんな研究が紹介されていて、あらためて私たちの世界認識というものについて考えさせられる内容だった。特に興味深かったのは体の感覚に対する錯覚で、私たちの体というのは一種の幻想ではないかともいうようなものであった。その一例としてラバーハンド錯覚というものが紹介されていたので、少し説明してみよう。

 まず、被験者の目の前の机に造り物の右手が置かれている。被験者は自分の右手をその右側に置く。次に二つの右手のあいだに仕切りを置いて、被験者からは自分の右手を診えないようにする。そうしておいて、実験の主催者は二つの右手の同じ部分を同じように触り刺激する。そうすると被験者は、見えている作り物の右手が自分の右手であると感じるというのだ。それはもちろん錯覚だが、このことから視覚と触覚を一致させようと無意識の内に「自分の体」の位置を推論していることが分かる。私たちは物や自分の体が整然と配置されている「客観的世界」というものを信じているが、あくまでそれは推論によって成り立っていると、この番組を見て再認識させられた。

 ずいぶん前になるが、現象学の入門講座で実物そっくりの陶器の「リンゴ」を手に持たされた時のことを思い出した。私たちは、「そこにリンゴがあるから赤くて丸いものが見えている」と思いがちだが、実は逆で「赤くて丸いものが見えているから、そこにリンゴがあると推論している」のである。

 エルンスト・マッハは真理と虚偽という絶対的区別は認めず、それに替えて「認識」と「誤謬」という区分を採用した。認識と誤謬は同一の心的源泉から生じるものであって、その両者は結果によってしか区別できないというのである。その結果というのは、われわれが生きていくのに都合よいか否かということだけである。

 客観的な整合性をもつ物自体というものがもしあったとしても、カントの云うようにそれは認識できない。客観的世界を自分が認識できていると感じていたとしたら、多分それは幻想だと思う。
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有無の邪見

2024-12-24 14:00:20 | 哲学
  南天竺に比丘あらん
  龍樹菩薩となづくべし
  有無の邪見を破すべしと
  世尊はかねてときたまふ
 
 上記は親鸞聖人による高僧和讃の中の一節です。「南インドに龍樹菩薩が現れて有無の邪見を論破するであろうと、お釈迦様は仰った。」というようなことでしょう。問題はこの「有無の邪見」ということですが、東本願寺では「ものごとを肯定する『有』とか、否定する『無』とか、そのような誤った考えにこだわる見方」というふうに説明しています。それはその通りですが、実は龍樹自身はもっとラジカルなことを言っていて、「言語による断定はすべて真実から外れている。」というようなことを主張しているのです。 

 例えば、「鳥が飛んでいる」  という言葉について考えてみましょう。その言葉を発した人は何かについて言い得たつもりで、聞いた方も何かを了解した気分になるかも知れません。しかし、それは気分だけで情報としては実際にはほとんど何も伝わっておりません。スズメが飛んでいたのか、コンドルが飛んでいたのか、もしかしたらハチドリが飛んでいたのかも知れません。まっすぐとんでいたのか、カーブを描きながら飛んでいたのかも分かりません。では、それらの言葉を説明として追加していけば、実際の様子が本当に分かるでしょうか? 日常会話においてはほとんど問題は生じないでしょう。聞き手は自分の経験をもとに感性的なイメージを補っているからです。しかし、聴き手が経験したことのないような景色については、いくら言葉を費やしてもそれをイメージさせるのは不可能です。

 以前の記事「知性はデジタル」でコンピューターの内部ではすべて "1" と "0" のデジタル信号だけで処理されているというようなことを述べました。私たちの言語やそれに伴う判断処理はすべてコンピューターで処理可能です。なぜなら私たちの言語そのものがデジタル的だからです。「鳥が飛んでいる」という言葉そのものは、この世界を「鳥が飛んでいる世界」と「鳥が飛んでいない世界」に分節し、二者択一しているだけの機能しか持たないのです。鳥が何であるか、どんなスピードでどちらの方角に富んでいるのかは何にも分からない。

 前回記事で述べたように言葉というのはデジタルな信号に過ぎないのです。実際に言葉はすべてコンピューター内では"1" と "0" で構成された信号に置き換えられています。判断もまた"1" と "0" の組み合わせなのです。"1" と "0"は実際は電気的なONとOFFですが、"有"と"無"と言い換えても良いと思います。要するに二者択一的であるということです。つまり言語で運用される知的活動はすべて、二者択一的な信号の組み合わせででしかないということです。言語で表現できるものはすべて有無の見なのです。
 
 言葉は人間社会にとっては必須のものてす。「12月23日に三越前でデートの待ち合わせしよう。」とか「一個300円のまんじゅうを10個買うには3000円必要」だとかいうデジタル的な情報はことばで十分伝えることができます。しかし、龍樹が問題にしているのはこの世界の真理についてであります。最も根本的な問題を有と無の信号の組み合わせによっては処理することはできない。言語化されたものつまりイデオロギーが真実に的中することはない。言語によってものごとを断定してはいけない、というのが中庸の精神であります。


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言葉には意味がない?

2024-12-24 12:18:31 | 哲学
 いかにも逆説的なタイトルを付けましたが、これは本気で言っています。意味がないというなら、なぜおまえはこんなブログを書いているんだと言われそうですが、それは読者の方々の方で意味を読みこんでいるからです。もし言葉に意味があるのならChatGPTは言葉の意味を考えているということになるでしょう。しかし、製作者が云うには、ChatGPTは膨大な文章の集積を集計して確率処理し、人間的要素を加味するために適度にランダム化しているだけだということなのです。膨大な言葉間の関係性を突き詰めていけば、私たちの思考空間とほぼ同型の言語空間が出来上がるということなのでしょう。コンピューターは一つひとつの言葉の意味を考えているわけではありません。コンピューターが問題にしているのは言葉と言葉の連なりの関係性だけです。
 
 現代言語学では「犬」という言葉は、この世界を犬と犬以外に分節する働きしかないと言われています。「犬」そのものが何を指すかということは、その言葉を使用する者の主観にゆだねられているということなのです。ただ。生活習慣を同じくする人々の間では、「犬」という言葉はいわゆる犬を指す働きをするようになります。「犬」は日本の標準語ですから、日本人の間で使用されている場合はほぼ齟齬なく通用するでしょう。しかしそれでも、言葉の意味は使用しているものの主観にゆだねられているという事実は免れないのです。というのは、犬の本質というものが存在しないからです。犬と犬以外の客観的な境界が存在しない以上、それは人それぞれに恣意的判断をしていることになります。日常的には問題になるようなことはありませんが、生物学の種の定義というようなテーマとなるとそのことが明瞭になってきます。人と類人猿の境界にも同じようなことが言えます。人類は大昔には存在しなかったわけですから、最初の人類が存在したはずです。だとすると最初の人は人以外から生まれたはずです。その境界を決定する客観的な条件はないと思います。

 私たちは「犬」という言葉を聞くと反射的に感性的な犬のイメージが湧くので、その言葉には意味があると思いがちですが、「犬」という記号にはあなた自身が持っている犬のイメージを想起させるスイッチのような働きしかないのです。「犬」という言葉の働きは犬であるかそうでないかという区別を示すデジタル的なものでしかないのです。
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~が無いということ

2024-12-20 17:41:31 | 哲学
 以前哲学者の野矢茂樹先生を読んだときに、「馬がいないという絵は描けない」という趣旨のことが述べられていたと記憶している。馬のいる絵というものは描ける。実際に画用紙またはキャンバスに馬の姿を書き込めばいいのだ。その絵を見れば誰でもそれが馬のいる絵だと分かる。そして実のことを言えば、馬のいない絵も描くことはできる。馬の姿を描き込まなければ、確かにその絵は馬のいない絵のはずである。しかしここで言いたいのは、はたしてそれが「馬がいないという絵」であると言えるかどうかである。

 以上のいきさつを知らない人に、その「馬が描かれていない絵」を見せたとしても、「ほう、馬がいない絵ですね」という人はまずいない。その絵に描かれていないのは馬だけではないからである。その絵が「馬がいないという絵」だというなら、その絵はまた「ネズミがいない絵」でもあり、「ゴキブリがいないという絵」でもなければならないはずだ。その絵一枚で「馬がいない」ということを語らせるためには、ありとあらゆるものを絵に描き込んで馬だけを描き込まないようにしなければならないだろう。もちろんそんなことが可能であるはずもない。

 このように考えてきて分かるのは、「~が無い」というのは「~が有る」の否定でしかないということである。「太郎はこの部屋にはいない」という言葉は、太郎がこの部屋に存在し得ることが想定されるのでなければ実質的な意味はない。「無い」は「有る」の否定でしかないのである。

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