禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

あるはずのない根拠を求めることを無明と言う

2018-12-30 20:12:42 | 哲学

 前回記事では、この世界の成り立ちについての根源を問うたとしても、それは意味のないことであるというようなことを述べた。それはそのまま、私達がこの世界に生まれついたということ自体が無意味であるということである。私達はなぜ生まれてきたのだなどと問うてもその答えはない。もうすでに私たちは生まれてしまっている、というその事実を受け止めることから始めなくてはならないのである。

我々が存在することの理由などない。あるはずのないものを求めることを無明というのである。現前している世界はそのまま受け止めるしかない事実である。そのことを腹の底から理解するということが「あるがまま」の世界を受け入れるということである。なんの不思議もない実は当たり前のことだが、それが実は一番重要なことでもある。そのことに気がつけば、無明と言う実存の不安はネガがポジに反転するがごとく妙へと転移するのである。「柳緑花紅」、「眼横鼻直」などと表現するが、この当たり前の世界が素晴らしいということになる。野に咲いた一輪のすみれに感涙した明恵上人はこの世界の妙に感動したのだ。

この世界があるということ、私達が生まれてきたということには意味がない。しかし、それは私たちの人生が無意味であることを意味しない。無意味な「自分探し」などにとらわれることなく、現実をしっかり受け止めて生きていくなら、おのずと有意義な道が開かれてくるということではなかろうか。

 

 

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神秘とは、世界があるというそのことである

2018-12-26 17:24:49 | 哲学

私達はなぜか疑問を持つ。なぜかどのようなことについても理由があると信じている。だからつい問うてしまう。「なぜ世界はこのようなのだろう?」とか「なぜ私はここにいるのだろう?」とか‥‥。

問題は、そのような問いに対して、どういう回答を期待しているかである。おそらくどんな答えが返ってきても、あなたは満足しない。「この宇宙ができたのはピグ・バンがあったからだ。」とか、「お父さんとお母さんが結婚したからあなたは生まれた。」などと聞かされても、おそらく何もわかった気がしないはずだ。根源的なことについては、なにも分からないということは問を発する前から分かっている。どのような回答を期待しているか自分でも分からない、というのは実は問いを発している自分自身が、なにを問うているかが分かっていないのだ。「なぜ世界はこのようなのだろう?」と疑問を持ったところで、この世界がどのようであれば納得するというものでもない。ウィトゲンシュタインは「論理哲学論考」で次のように述べている。

【 神秘とは、世界がいかにあるかではなく、世界があるというそのことである。】  (6.44)

世界がどのようにあるかについての理由についてとりあえずの説明は可能かもしれない。しかし、「世界があるというそのこと」については根源的な分からなさがある。それはそのまま自分自身の存在の不可解さでもある。

「理由がない」つまり存在の必然性が分からない。あまりにもわからなさすぎる偶然性に人は耐えきれない。サルトルの「嘔吐」の主人公ロカンタンは、あるとき存在の偶然性に気づき、マロニエの木の根を見て吐き気を催す。世界がとてもグロテスクなものに見えたのである。存在の理由をこの世界の中に求めても無駄である。無常の世界は変転するだけで、つねに過渡的であり不完全かつ不安定であり、その完成形・あるべき姿を示唆しない。

しかし、これは奇妙な話でもある。我々はなぜ「なぜ?」と問うのだろう。考えなくてはいけないのはその問いかけの真の意味である。何を求めているか分からないまま訊ねても、それは意味のない質問である、その時自分は自分の質問の意味さえ理解していない。惰性で「なぜ?」と言うべきではない。この世界の由来は到底我々の経験の及ぶ範囲にはない。釈尊はそのような事柄については『無記』であるとしたのである。その意味を問おうとしても問うことはできない、疑問を言葉にしたとしても、実はその疑問の意味を我々は理解していないからである。ウィトゲンシュタインはそれを「語りえぬこと」と表現した。「論理哲学論考」の最後は次の言葉で締めくくられている。

 【 語りえぬことについては沈黙すべし 】 (7.0)

新宿 ゴールデン街

 

 

 

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この世界に矛盾はあるか?

2018-12-20 09:15:29 | 哲学

ある人に、「我々の世界は無矛盾な世界ではなく、矛盾のある世界であると考えれば、すべての謎(アポリア)が解消される、という考えはどう思われますか?」と問われた。

私は「その矛盾と言うのはどういう意味ですか?」と問い返したのだが、どうも要領を得ない。「矛盾」という言葉はいろんな意味に使われることがあるので、議論するにも意味をはっきりさせておかなくてはならない。人によっては「平等であるべき人間社会で貧富の差があることは矛盾だ」と言う。西田幾多郎なら、ものがあって運動しているだけで、そこに矛盾があるというだろう。

矛盾の本来の意味は論理的なものである。文字通りの意味は、「すべてのものを突き通す矛といかなる矛も撥ね返す盾が同時に存在する」ということである。矛盾という言葉をそのように解釈すれば、私達の世界は「無矛盾な世界」であると言って良いだろう。円い三角や、青い信号が赤く点灯している、というような事態は起こらないのである。

私達は矛盾することがらを考えることも想像することもできない。「どんな矛をも撥ね返す盾が突き破られる」ことを考えられるだろうか? もし突き破られたとしたら、それは「どんな矛をも撥ね返す盾」ではなかったというだけの話である。「円い三角」を頭の中で思い描くことができるだろうか? どんなに頑張ってみても三角おにぎりを想像するのが関の山である。言うまでもないが、三角おにぎりは円い三角」ではない。

かりに矛盾した事象が起こっていたとしても、我々にはそれを認識する能力はない。トラック一周400メートルの競走で、審判がピストルを構えて「位置について用意!」と言う前に、走者がゴールしたとする。我々にはその事態を「スタートする前の走者がゴールした」と理解することはできないはずだ。空間と時間の秩序に矛盾する事態を我々は認識できないのである。

厳密に言うと、「矛盾がない」ことと「矛盾を認識できない」ということは別のことだが、認識できない世界のことを論じても意味はない。我々にとっての「世界」とは認識できる世界のことで有ったはずだ。この世界は「無矛盾な世界」であると言っても差し支えないと私は考える。

後半部の「矛盾のある世界であると考えれば、すべての謎(アポリア)が解消される。」という考えははっきり言ってつまらない。数学では矛盾を一つでも許せば、どんなことも証明できてしまう。つまり、矛盾のある世界では何が起こっても不思議ではない、当たり前のことと見なされる。矛盾のある世界では謎(アポリア)も当たり前のこととなってしまう、と言うだけの話である。

素人の哲学談義は言葉の遊びに流れてしまうことが多い。

シアトルのファーマーズ・マーケット

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「イブのイブ」はおかしい

2018-12-19 07:43:34 | いちゃもん

取り立てて目くじら立てるほどのことではないのかもしれないが、気になるものは気になる。個人が「今年のイブイブは金曜日だね」などという分には特段何も言う気はない。しかし、「今年の有馬記念はイブのイブ」などとテレビで大々的にやっているのは如何なものかと思う。メディア関係者は自身の影響力の大きさを自覚する必要がある。事実でないことを日本中に堂々と広めてどうすると言いたいのだ。

そもそも「イブ」に前夜祭の意味はない。evening つまり夜のことである、それ以上の意味はない。昔のユダヤの一日の始まりは夜であった。一日は夜(evening)と昼(day)のセットなのである。

創世記の第一章第五節は次のようになっている。

【神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕となり、また朝となった。第一日である。】

第一日は夕から始まったのである。つまり、クリスマスというのは24日の日没から25日の日没までの間を言うのである。24日の日没から25日の夜明けまでを「クリスマス・イブニング」と言い、25日の夜明けから25日の日没までを「クリスマス・デイ」と言う。だから、25日の未明はまだ「クリスマス・イブ」だし、25日の夜は既にクリスマスではないのである。

24日が「クリスマス・イブ」で、25日が「クリスマス」というのは、まちがえて伝わった知識であることは憶えておいてもよい。

今朝の富士(12/19 6:47)

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絶対善はあるか?

2018-12-11 08:47:36 | 哲学

絶対善などというものがもしあったとしたら、たぶんそれはつまらないものだろうと思う。ミツバチや蟻の世界ではそれが実現していると言って良い。彼らの行動は一貫して群れ(公)の為である。女王バチはひたすら卵を産み続け、働きバチひたすら蜜を集め、ひとたび外敵に巣が脅かされれば身を挺して戦うことをためらわない。本能と行動が群れ(公)の為という意味で一致している。彼ら自身はおそらく自分の行動を「〜のため」などと意識しない。ただ、そうすべきであるからそうしているのである。これはカントの倫理観とも一致している。 (ただし、ミツバチに理性というものがあって自律的に判断しているという前提ならばの話だが‥)

ミツバチは巣単位に遺伝子を共有しているため、淘汰圧も巣単位にかかる。各個体の本能が群れのためにつくすという一点になるまでに遺伝子が洗練されてしまったのだ。 

人間は社会的動物だがミツバチほど単純ではない。生存競争は群れ単位でもあるが同時に個体単位でもある。群れ同士の闘いになれば、自己犠牲をいとわない個体が多いほど群れの生存確率は高くなるが、群れの中では犠牲的でない方が生存率が高い。そのため人間の本能はアンビバレントなものにならざるをえないのである。国家の危機になれば自己犠牲が美しいものに見えてくる。と同時に潜在意識の中では自分が生き残る道を模索することになる。その結果、滅私奉公を声高に叫びながら、それ以上に他人に同調圧力を加えるようになる。抜け駆けを決して許さないのである。その結果、自分より先に死んでくれる人間には称賛を惜しまない、靖国神社に神様としてまつられもする。その反面、自分より先に死のうとしない人間に「非国民」のレッテルを貼ろうとする行為は苛烈なものとなる。 

ともあれ我々は所詮、きれいごとを口にしながらうまく立ち回ってきた人間の末裔であることを忘れるべきではない。何が善であるかは一概には言えない。偽善に陥りやすいのである。 

今朝の富士(12/11 7:06)

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