先日来、この世界について何かを知るということはどういうことなのだろうと考え続けている。で、結局のところ、この世界の「秘密」を知るというような意味での知り方、というものはないのではないかと思うようになった。私はもともと、この世界のことなど何も知らないのである。世界とは私の経験である、とすれば、もともと世界に秘密などなく、私は世界を受容していくだけのことしかできない。
人は、科学がわれわれになにかを教えてくれると思いがちである。しかし、科学というものを煎じ詰めてみると、結局それは人々の経験を集積したものを抽象し一般化したものに過ぎない。つまり、この世界の秩序を経験から一般化したものを科学と呼んでいるのである。したがって、哲学的な視点から見れば、科学というものはこの世界の秘密を解き明かすという性質のものではなく、世界の秩序を再確認するものでしかありえない。
手で持ち上げたリンゴを空中で離すと、そのリンゴは地面に落ちてしまう。物理学者は「リンゴと地球が万有引力で引き合っているからである。」と説明する。人々はその説明を聞いて一応は納得する。しかし、一体何に対して納得したのであろうか。人々ははたして万有引力を見たのだろうか? 万有引力を見た人などいないはずである。人々はリンゴが落ちるのを見ていただけである。もともと、人々はリンゴが落ちるということを知っていた。しかし、リンゴがなぜ落ちるのかということは知らなかった。それに対してニュートンは「万有引力があるから落ちるのである」という一つの解答をもたらしてくれた。
しかし、哲学的に見ればこれは何の説明にもなっていない。なぜなら、リンゴが落ちるから万有引力があると推論したのである。
「リンゴが落ちる」 ⇒ 「万有引力がある」 ⇒ 「リンゴが落ちる」
説明が循環している。「リンゴが落ちる」ことと「万有引力がある」ことは実は同じことを違う言葉で表現したに過ぎない。もともと哲学的には等価なのだから、万有引力はもともとの「なぜリンゴがなぜ落ちるのか?」という問いの答えにはなりえない。「万有引力があるから」と答えたとしても、元の問いが「なぜ万有引力があるのか?」に変わるだけのことである。
「リンゴが落ちる」ということを「万有引力がある」と言い換えることは、科学的にはもちろん意義のあることである。万有引力という概念を導入することによって、「リンゴが落ちる」ことだけではなく「地球が太陽の周りをまわっている」というような、別のことがらも統一的に説明できるようになった。できるだけ少ない要素・法則で多くのことがらを説明することが科学の使命である。しかし、万有引力の発見によって、この世界の何かについて新たなことが分かった、というようなことはないのである。
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