私は禅体験のほうから哲学の方にアプローチしたのであるが、勉強の仕方は我流そのもので一般的な知識は乏しい。この本は哲学者である木田先生が一般向けに書いたものであるが、私にとっては知識の乏しさを補うとともに、自分の考えていることを相対化できて、とてもありがたい本である。
木田先生がここで「哲学」と呼んでいるのは、プラトンから始まるいわゆる西洋哲学のことで、「超自然的な原理で世界を規定しよう」とする試みのことらしい。そのような「哲学」を乗り越えようとする哲学をここでは「反哲学」と称しているのである。「超自然的な原理」といきなり言われてもなんのことだか見当もつかないが、読み進めていくうちにどうやらそれは仏教の根本原理である「空観」と真逆のものを意味することが分かった。空観を理解するためにも、この「超自然的な原理」について説明したいと思う。
西洋式庭園と日本式の庭園を比較すると、「西洋式」の方は幾何学的な直線や曲線が多いのに対し、「日本式」は人工的なものを極力排除して、石の置き方一つにしても規則的にならないように配慮される。「西洋式」は幾何学的な美しさを理想としているのに対し、「日本式」はあくまで自然そのものを再現しようとしているかのようである。
この幾何学的な美しさが西洋思想に超自然的原理を象徴している。彼らは自らを自然と対峙するものと位置づけ、超自然的原理に基づき自然を合理的なものに作り替えることができると考えるのである。日本式から見れば、この幾何学的美しさという「超自然的原理」は「不自然な作為」と見なされ、極力排除されるべきものとなる。このように庭園一つをとっても彼我の違いは大きいが、その根源をたどると西洋のプラトニズムと仏教の無常観の違いに行きつくのだろう。
プラトニズムにおいては、個々の人間は一人一人違っても人間であるとみなされるのは、人間のイデアというものがあるからだと考えられる。つまり、イデアという範型に従って人間が作られていると考えるわけである。暗黙の裡に、人間を作る側の超自然的な主体を前提しているのである。それに対し仏教は、この世界における質料の分布は偶然的であり常に流動していると見る。それが無常ということである。いかなる固定的なものも認めない。したがってイデアというような完全で理想的なものも存在しないと考える。すべては偶然的であるから、微細に見れば完全で理想的なものは自然の中にはあり得ないのである。
もう少し、人間のイデアというものについて考えてみよう。人間のイデアが存在するということは、人間の本質というものが存在するということと同じである。なにが人間を人間たらしめているのかということに行きつく。ここで考えてみよう。もともと地球上には人間はいなかったと考えられる。ならば、この地球に出現した最初の人間がいたはずである。だとしたら、その最初の人間は人間以外の動物から生まれたことになる。また進化論によれば、現在の人間も何万世代も経れば、現在の人類とは似ても似つかぬものに枝分かれしていくことも十分考えられる。人間が人間以外の親から生まれ、人間が人間以外の子を産むと考える時、そこに客観的な境界を設けることができるだろうかという問題がある。もしイデアというものが実在するのなら、誰が見ても明らかな境界がそこに無くてはならないはずである。
仏教はそのような超自然的な境界は実在しないと結論づける。人間を厳密に定義づけるのは不可能である。自然は常に流動的であり、連続的に変化しており厳密な意味では個物さえも生じない。いわゆる個物というのは比較的安定したパターンという程度の意味しかないのである。一人の人間というものに着目してみても、常に外界から栄養や酸素を取り入れて老廃物を排出している開放系であり、常に新陳代謝を繰り返し不断に変化し続けていることが分かる。いわば水中の泡や渦と同じようなものと見ることができる。アワや渦に比べて複雑でかつシステマティックに安定しているというだけのことである。
龍樹は「すべてを陽炎と見よ」と言ったらしい。その真意を「有るように見えていても、実は無いんだよ」などというふうに受け取る向きもあるが、仏教はそのように神秘的なものでない。陽炎とは水中の泡や渦と同じようなパターンであって、いずれはかなく消えていくものである。この世界にあるものは安定度の違いはあってもすべて陽炎のように消えていくパターンに過ぎないと言っているのだ。 富士山のように偉大な存在でも、見れば確固たる存在に見えるが、微細に見れば常に変化し続けている。
言語というものは必然的にものごとに固定的なイメージを与える。しかし、自然界に固定的なイメージに対応するものは実在しない、というのが龍樹の言いたいことであろう。そういう意味において、「机も山もない」ということは言える。しかし、それは「机も山も見えているけれど本当は無いんだよ。」という意味ではないのである。
われわれはそれを机と呼んでいるけれど、単に木を切りそろえて組み立てたものをそう呼んでいるに過ぎない。それはシロアリから見れば美味しいご飯にしか見えないだろう。普遍的な机というものは実在しないのである。山から一掴みの土か石を取り出しても、山は依然として山であろう。しかし、それを繰り返していけば、それはいつかは山とは言えなくなる時が来る。山が山でなくなるその境界は有るのだろうか? そんなものはないはずである。山の本質というものは実はどこにもない。「山は山に非ず是を山と名づく」というのはそういうことである。
明神ヶ岳