いわゆる禅問答のお題を公案と言います。無門関というのは公案集の中でも有名なもののひとつです。禅には「無門の門から入るべし」と言います。入るべき門がないからどこからでも入れるともとれるし、門がないから入り方が分からないともとれます。その辺が禅の禅たる所以でしょう。
その無門関の第一則が「狗子仏性(趙州無字)」です。
≪趙州和尚、因みに僧問う、「狗子(くし)に環(かえ)って仏性有りや也(ま)た無しや。」州云く、「無。」≫
ある僧が趙州和尚に「犬にも仏性がありますか?」と問うたところ、趙州は「無」と答えた。ただこれだけの簡単な内容です。
仏教では、「一切衆生悉有仏性」(※注)と言います。生きとし生きるものすべてに仏性がある。この仏性という言葉ですが、「仏になる可能性」だということです。そのような性質がどのようなものであるかははなはだ分かりにくい、そもそも仏がなんであるかが分からなければ話にならないわけです。私はそれを私たちが「心」だとか「意識」と呼んでいるものだというふうに解釈しています。私の何が仏になるのかと考えた時、私の手や足が仏になるとは考えにくい。私の肉体は常に新陳代謝で入れ替わっており、それらが仏になる事態というのは考えにくい。問題になるのは「心」、「意識」あるいは「魂」と呼ばれるものではないかと思うのです。(この辺は私の独断です。私は仏教を体系的に学んでいるわけではないので、そのつもりで読んでください。)
趙州和尚は「口唇皮上に光を放つ」と称えられた名僧で、公案の中で登場回数が最も多い人です。その禅の達人に、ある僧が「犬にも仏性がありますか?」と問うた。もちろんその僧は「一切衆生悉有仏性」ということを知りながら、趙州の力量を試すかのように問うているわけです。
ここで注意しなくてはならないのは、禅においては「犬にも仏性がある」と教えられて、「ああそうなんだ、犬にも仏性があるんだ。」というような、受け売りの知識を教えられて分かるような分かり方というものはないということです。すべて自分が腹の底から実感しなければ「分かった」とは言えないということです。そういう意味では、犬に仏性があるかどうかということは、自分が犬でなければ根源的に分かりようがない問題です。
それともう一つ、禅というのは中心課題として、常に「己事究明」があるのであって、表面的には犬の仏性について問われたとしても、仏性そのものを問題にしている。そして、それは畢竟己の仏性という問題にならざるを得ない。
なぜなら、禅は科学では全然なくて、つねに実存的な視点からものを見ているからです。哲学的な言葉で言うと独我論的な視点しかないので、一般的で客観的な仏性を論じるというような視点をもたない。だから禅では「ただ今即今、ここ」という立場しかないのです。
そういう観点から見ると、趙州和尚の「無」は深い意味をたたえているように見えてきます。犬の仏性の有無を問題にする態度を否定して「無いよ」と言い捨てているようにも見受けられますが、意識あるいは心そのものが、なんであるかと問われているとした場合はどうでしょう。
前段で、「私の肉体は常に新陳代謝で入れ替わっており、それらが仏になる事態というのは考えにくい。」と述べました。実は意識も同様で、常にダイナミックに変化し続けています。なのに、私は一貫して「私は‥‥」と言い続けます。その究極の主体性というべきものを追及するのが「己事究明」であります。
デカルトは、「私は考える」ということからそのまま「私」があるということを導きだしましたが、その場合ははじめから「考える私」というものを前提としているわけです。仏教はその「考える私」から考えや感情という変化するものを取り除いてやって、純粋な私あるいは純粋な意識というものを突き止めなくてはならないと考えます。その結果、「無」にたどり着いたというわけです。
「テーブルの上にリンゴが有る」とか「無い」とか言うように、有無というのは通常は「物」について言えるものです。(ここでは思想や感情も「物」に含めます。) しかし、意識の根底は所与であって、有るとか無いとか言えないものです。映画で言えばスクリーンのようなものです。スクリーンは映画の外から見れば確かに存在しますが、映画の中にはそれは存在しません。「無」は世界を映すスクリーンに例えられると思います。それは世界を映し出すが、その世界の中には出現しないものです。だから、それをあえて「無」と表現します。
趙州は、ただ「無」とだけ答えた。それは「無」というものだともとれるし、有無を超えた否定の無であるともとれます。
(参考) =>狗子仏性(趙州無字)
(※注)「一切衆生悉有仏性」 :仏教の根本原理である慈悲は一種の感情移入でもあるので、こういうことが言われるようになるのは必然的だと思います。日本では「草木国土悉皆成仏」ともよく言われます。生物から無生物への拡張解釈も自然の流れなのでしょう。
この猫も仏性をもつ。