【 私たちはふだん『ものがあって私が見る』という見方をしています。それを善では色(しき)の見方と言います。しかし、モノゴトにはもう一つのみかたがあるのです。それが空(くう)の観かたです。(繰り返しますが、見かたと観かたと区別しているのでご注意ください。いずれも「みかた」です。) 『空』の観かたによれば、『私がモノを見るという体験こそが真の実在だ』というのです。 】
表現に少々難はあるが、言いたいことは理解できる。禅を実践している方々の中にはこのように理解している人も多いのではないかと想像する。そのように思うのは、私自身もかつて「空」をこのように理解していたことがあるからだ。西田幾多郎の「善の研究」における「意識現象が唯一の実在である。」に通じる視点である。しかし、それを空観であると言ってしまえば、空観=「モノ的実在感の否定」というだけのことになってしまう。さらに、「龍樹の『空』と禅の『空』は異なる」とまで言ってしまえば、禅は仏教ではないと言っているも同然である。
現在伝えられている仏典は長い年月と多くの人々の手を経ており、その中には矛盾していることもたくさん書き込まれている。誰もが釈尊のような優れた思想家ではないのだから、それは当然のことだろう。仏教はその根本に高度な哲学を含んでいるため、なかなか釈尊の真意が伝わりにくいという一面もある。宗教として広めるためには、わかりやすい図式を方便として利用せざるを得なかったということも考えられる。
いわゆる六道輪廻とか宿業という言葉も仏教用語として知られているが、本来の仏教とは無縁の言葉である。過去世などというあるかどうかを確認しようのない概念については言及しない、というのが釈尊の流儀である。
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ちなみに、ある仏教系団体の公式ホームページには次のように説明されていた。
“自分は何も悪いことをしていないのに、なぜこのような苦しみを受けなければならないのか”と思うような苦難に直面しなければならない場合もあります。仏法では、このような苦難は、過去世において自分が行った行為(宿業)の結果が今世に現れたものであるととらえます。「業」とは、もともとは「行為」を意味する言葉です。今世の幸・不幸に影響力をもつ過去世の行為を「宿業」といいます。
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このように、宿業の考え方は、往々にして希望のない宿命論に陥りやすいのです。これに対して、「宿命の転換」を説くのが、○○大聖人の仏法です。"
人々に希望を与えるための方便としてはこういうのもありかもしれない。しかし、無常を説く仏教にはもともと予定調和的な考えはなじまない。善根を積んでいても悲惨な運命をまぬかれない場合もあるのである。「善因善果」というのは善行を奨励するためにはわかりやすくてよいかもしれないが、そんなことを言う新興宗教は他にもたくさんある。仏教はあえてそのような方便を説く必要はないと思う。
実は、私の好きな歎異抄にも「宿業」という言葉が出てくる場面がある。親鸞は神秘的な言葉遣いはほとんどしない人なので、親鸞ファンの私としては少し弁解しておきたいと思う。
「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」(歎異抄 第13条)
どんなにいい人でも場合によっては人を殺してしまうこともある。性悪な人間でも条件が整わなければ悪事を働くこともない、時には善行をすることもある。善人悪人と言っても所詮相対的なものに過ぎない、人間はすべて不完全なのだ。
「人間が生身である限り完全であることはできない。」このことは親鸞が生涯抱き続けた絶望的な感慨である。7歳で出家をしたときはおそらく仏教に大きな力があることを信じていた。その奥義を窮めれば自分だけではなく多くの人々を救う力を持つことができると考えていたに違いない。しかし、修行すればするほど、そのような「神通力」はないということが分かってくる。仏典を研究しても単に知識が身につくだけのことである。二十年も命がけで求めていたものが実はスカだった、そのような絶望感はいかほどのものだっただろう。
当時は公家から武家へと権力が移動する時代の変動期である。多くの人々の運命が翻弄されていた。親鸞は下級貴族の子弟ではあったが、庶民に比べればはるかに恵まれている。日常的に人が野垂れ死にしている中でのうのうと生きている自分に後ろめたさを感じていた。自分より飢えている人を見れば、自分の食べ物を分け与えるのが善人と言うものだろう。しかし、善人であろうとすれば生きてはいけないのである。困窮を極める人をしり目に自分は食い、あまつさえセックスまでしたがる。そんな自分を到底善人と認めることはできない。「悪性さらにやめがたし、こころは蛇蝎のごとくなり」というのは彼の真情を吐露した言葉に違いない。
生身の人間は善人であることはできない。そのことは彼自身の体験から骨身にしみていたのである。宿業とは自分の力では太刀打ちできないその状況のことを言うのである。前世の因縁などというものとは全く関係ない。無常の荒波にさらされる自分の無力さを仮に「宿業」と言っているにすぎないのである。
人は行において完全であることはできない、信において完全を求めるしかない、それが親鸞のたどり着いた結論である。己を空しくしてひたすら弥陀にすがりつく、それしかないと親鸞は言う。絶対他力という、親鸞が「信」にとりわけ厳しい態度であるのはそういう所以である。