禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

世界の哲学者に人生相談

2017-08-31 10:45:30 | 日記

先日、NHK-Eテレで「世界の哲学者に人生相談」という番組を見た。導入部で、ニーチェの名言によって人生に対する目を開かされたという女性の例が紹介された。

「あなたにとって最悪の敵はあなた自身である」 この言葉が、子育てに悩む中でまわりの人を敵視する女性の人生観を一変させたというのだ。

私個人は、人生相談は哲学者にするものではないという考え方の持ち主である。特にニーチェは人生相談の相手としてはもっとも適さない哲学者だと思う。哲学者はみなとびぬけて高い知性をもつが、決して人生の達人というわけではない。むしろ、その性格に偏波なものを抱えており、その鬱屈を合理化するために考え抜く、というタイプの人も多い。私の見るところニーチェはその最たる例である。

前出の女性の、周囲の人々をみな敵視するというその見方が変わるきっかけとなったのは、電車の中で出会った夫人から受けた親切な行為であったという。他人から受けた思いやりがうれしくて、心から感謝した時、ニーチェの言葉の中の「敵」、「あなた自身」という言葉を強く意識した。その時、敵は周囲にあるのではなく、自分自身であった、ということに気づいたというのだ。

彼女は、この「気づき」がニーチェによってもたらされたと思っているかもしれないが、それは違う。おそらくそれは子育てをする苦労の中で、彼女自身がなしえた成熟によって獲得したものだ。たぶんそれはニーチェとはなんの関係もないものである。

ニーチェの著書には、思いやりだの親切、そしてそれに対する感謝などというものを評価する言葉は一切出てこない。キリスト教的価値観への反発と怨念、自分自身の高い知性に対する選民的な誇り、ニーチェの思想はそれらからなっている。その言い分を真に受ければ、一般に通用している倫理とはかけ離れたものであり、人生の指針とするには非常に危険なものである。

番組の内容は、あまり「哲学的」とは感じなかったが、おそらく「哲学」という言葉は多義的に使用されているのだろう。私自身が「哲学」を学問的にとらえすぎているのかもしれない。

番組の終わりごろ、ソクラテスの「正しく哲学している人々は死ぬことを練習しているのだ」という言葉が紹介された。それを受けて、妻が「あなた、死ぬことを練習してる?」と私に問う。もちろん私は、「否」と答えた。

妻に、「ふーん。あなたって、正しく哲学してないのね。」と言われた。


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泰山鳴動

2017-08-30 14:24:10 | 政治・社会

コラムニストの小田嶋隆さんが Twitter で次のようにつぶやいている。

≪ 隣人が拳銃を持っていてしかも銃口がこっちを向いている時に、「飛んでくる弾丸を撃ち落とす銃」を売りに来るセールスマンが現れたのだとしたら、そいつは詐欺師だと思います。 ≫

「飛んでくる弾丸を撃ち落とす銃」はとにかく高い、しかも本当に役に立つのかどうかはかなりあやしい。日本は既に六隻のイージス艦を導入している。 200を超える目標を追尾し、その中の10個以上の目標(従来のターター・システム搭載艦は2~3目標)を同時攻撃する能力を持つ。そんな高度な能力をもつ艦船を六隻もである。

なのに、たった一発のミサイルを打たれただけで、北海道から長野県までという広範囲で、電車を止めたり、頑丈な建物や地下に逃げ込んだり、こんなに大騒ぎするくらいならそのミサイルを迎撃すればいいではないかと思うのは私だけだろうか。

一発のミサイルの弾道計算結果が北海道から長野までということはあり得ない。日本の領土に落ちてこないことは初めから分かっていなくては、ミサイル迎撃などできるはずがないのだ。危機を煽り立ててイージス・アショアを導入させようとの意図が働いていないかどうか疑う必要がある。詐欺師の手先がこちら側に潜入している可能性があるとみるべきだろう。

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「日本とは何か」網野善彦

2017-08-19 10:48:40 | 読書感想文

われわれ日本人の多くは、「日本」というものが自然に成立しているというようなイメージをもっているのではなかろうか。もしかしたら、まだ日本列島に人が住んでいないようなときから、「日本は日本だった」ような感覚をもっているのではなかろうか。ヨーロッパのように頻繁に国境の変化があった国々とは国というものに対する認識が根本から違うような気がする。

しかし、この世界に固定的なものは一つもない。「日本」も自然にある地名ではなく、特定の時点で特定の意味を込めて、特定の人々の定めた国家の名前なのである。歴史を俯瞰するにはそのようなダイナミックな視点をもつ必要があることを、網野先生のこの名著は教えてくれる。以下に引用する。

≪ また「倭人」と呼ばれた人々は済州島・朝鮮半島南部にもいたとみられるが、新羅王国成立後、朝鮮半島の「倭人」は新羅人となっていった。このように「倭人」と「日本人」とが同一視できないことを、われわれは明確に確認しておく必要がある。
 ここで再三の繰り返しになるが、あらためて強調しておきたいのは、「日本人」という語は日本国の国政の下にある人間集団を指す言葉であり、この言葉の意味はそれ以上でもそれ以下でもないということである。「日本」が地名ではなく、特定の時点で特定の意味を込めて、特定の人々の定めた国家の名前--国号である以上、これは当然のことと私は考える。それゆえ、日本国の成立・出現以前には、日本も日本人も存在せず、その国政の外にある人々は日本人ではない。「聖徳太子」とのちによばれた厩戸王子は「倭人」であり、日本人ではないのであり、日本国成立当初、東北中北部の人々、南九州人は日本人ではない。
 近代に入っても同様である。江戸時代までは日本人ではなかったアイヌ・琉球人は、明治政府によって強制的に日本人にされ、植民地になってからの台湾では台湾人、朝鮮半島では朝鮮人が、日本人となることを権力によって強要されたのである。≫ (87頁)

網野善彦著「日本とは何か」 誰にも薦めたい、文句なしの名著である。

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死は人生のできごとではない

2017-08-05 08:10:33 | 哲学

前回記事に引き続き、「論理哲学論考」より引用する。

 6.431 死は人生のできごとではない。人は死を体験しない。
      永遠を時間的な永続としてではなく、無時間性と解するならば、
      現在に生きるものは永遠に生きるのである。
      視野のうちに視野の限界は現れないように、生もまた、
      終わりをもたない。

われわれが「死」について語るのは通常は他人の死、生物学的な死についてである。自分の死について語っているつもりでも、そのときは自分を第三者として見ているのである。たいていの人は死を睡眠の延長のようにとらえているのではなかろうか。しかし、睡眠中にも人は夢を見るし、必ず覚醒がともなう。死とは根本的に違うのである。
哲学や宗教で問題となるのは、実存としての自分の死についてである。しかしウィトゲンシュタインは、死は経験することのない概念であると言う。死もまた「語りえぬもの」なのだ。

この「語りえぬもの」という概念について、ウィトゲンシュタインより2000年以上も前に示唆した哲学者がいる。仏教の始祖であるお釈迦様である。

釈尊は死後の世界について問われた時、黙って答えなかったという。このことを指して、仏教では「無記」という。無記は、形而上の問題には言及しないという、仏教において非常に重要な概念である。

仏教は多くの人々の手を経て伝えられているので、いろんな夾雑物を含んでいる。神秘的な迷信まがいの物語性は、無記の精神に照らせば、釈尊の説いた本来の仏教とは相いれないものである。

京都に妙心寺の御開山は関山慧玄国師である。その関山国師にある修行者が死について訊ねたのに対し、「慧玄が会裏に生死無し」と答えたと伝えられている。「わたしの所には生も死もない。」という意味である。

私たちは、自分が「生きている」ということについては分かったつもりでいるが、生は死の対称語である。死が分からなければ、生もまた分からない。私たちはただ所与のものを「生」と呼んでいるに過ぎない。このことはまた所与のものを「私」と呼んでいることによく似ている。デカルトは「我あり」と簡単に結論付けたが、その「我」が何であるかは定かではないのである。

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語りえぬものについては沈黙すべし

2017-08-04 08:45:15 | 哲学

「語りえぬものについては沈黙すべし」というのは、ウィトゲンシュタインという哲学者の言葉で、「論理哲学論考」という論文を締めくくる言葉です。この「論考」はまるで箴言を書き連ねたような体裁で、哲学論文としては一風変わったものとなっています。それが少し格好良くて、特に「語りえぬものに‥‥」は引用されることが多いようです。

 普通は「語りえぬもの」については語ることさえできないのだから、「沈黙すべし」とは奇妙なもの言いです。ウィトゲンシュタインは、「哲学上の問題は言語の論理に対する誤解から生じている」と考えていたようです。つまり、本来なら語りえないはずのものが語られていると考えていたようです。

ウィトゲンシュタインの「語りえぬもの」とは、論理と倫理についてだと言われています。 

論理について語れないというのは、例えば論理規則に矛盾率というのがあります。「Aである」ということと「Aではない」ということを同時に受け入れることはできないという規則です。この矛盾率がなぜただしいかということを私たちは論じることが出来ません。もし、この矛盾率を否定しようとしても、矛盾率を使わなくてはそれもかなわないはずです。私たちはものごとの判断に論理を使いますが論理そのものを語ることはできないのです。 

倫理についてはどうでしょう。われわれは様々な価値感に基づいて判断をしながら生きているわけですが、その価値観というものは行動する領域より高次なものでなくてはならないわけです。すると倫理というものはその最高次のものですから、すでにその根拠を問える領域は我々を超越しているため、それを論じることが出来ないのです。 

「人間は何のために生きるのか?」という問いに対し、われわれはその答えがどのような形で与えられるでしょうか。このような問いは、文学的か宗教的にとらえるしか答えようがありません。「生きる」に<私>のすべての意味が込められているため、それをとらえきれないからです。人生の意味を捉えるには人生を超越している必要があります。人生のただなかにいながら、その意味を問うことはできない。われわれは生きるためになにかを問うのであって、生きることそのものを問うことなどできないのです。 

つまり、「語りえぬもの‥」には、本来は語りえないはずなのに無意味なことを語っている、という意味が込められています。若いウィトゲンシュタインは、この「論考」を書き終えた時点で、哲学上の問題はすべて解決したと宣言したのです。

横浜 日本大通り

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