伊波塾長の気ままブログ

スタディの代表者の伊波勝也塾長が、日常の出来事や生徒の勉強について思いつくまま気ままに書き込んでいます。

紛争の種

2015-08-31 11:53:21 | Weblog
先日、那覇でのデモに参加した。安保法案・基地辺野古移設反対の意思表示のためである。8月30日に2500人の人々が那覇での抗議集会とデモ行進に参加した。国会前では12万人の人々が集まり、それ以外にも全国各地で数多くの抗議集会やデモが開かれたようである。

「戦争の相手は中国だ。必ず安保法案は通す。」と安倍首相はオフレコで身近なマスコミ関係者に話しているのだという。

そもそも、中国は日本と戦争などしたくないのである。なぜなら、中国は日本から生産財や部品を輸入して、それを使って多くの製品を生産輸出し、中国経済を成長させてきたからである。また、日本から中国へ多くの企業や工場が進出して中国経済の発展に貢献している。また、日本にとって中国は貿易額が輸出・輸入とも1位の国であり、中国との経済関係を抜きにしては日本の経済的安定と発展はありえない状況である。

その状況で日本と中国が戦争になれば、日中貿易が止まり、中国に進出している数多くの日本企業が撤退し、日中双方の経済的ダメージは計り知れないものがある。

日本と中国の戦争によって、ただ一国、多大なメリットを受ける国がある。それは、アメリカである。GDPにおいて今やアメリカにほとんど肩を並べ凌駕する勢いの中国と、GDPが中国の半分で世界3位である日本が戦争をすれば日本・中国双方が国力を大きく損耗させていくことになり、アメリカは世界のナンバーワンの覇権国に留まることができる。戦争になると巨額の武器・兵器を日本中国双方に売ることができ、戦争終了後は破壊された町並みやインフラ復興のために巨額の建設事業を受注することができる。戦争とはある人々にとって大きなビジネスなのである。

戦争ビジネスは戦争の規模が大きいほど儲かり、戦争の期間が長いほど儲かる。

たとえば、太平洋戦争が始まる時、日本の石油供給は1年半しか持たないとされていた。しかし、実際は戦争が終わるまで4年近くも石油の供給は持ったのである。それは、アメリカが日本に日本赤十字社の船で秘密裏に石油を輸出していたからである。戦争を長引かせるためにアメリカの企業が日本に石油を輸出していたのである。

アメリカは今、日本と中国が戦争をするように日中双方に盛んにけしかけている。アメリカの傀儡である安倍首相が中国を戦争に向けて挑発するのだが、アメリカの傀儡ではない中国の習近平国家主席は日中関係の緊張状態を緩和して平和路線に戻そうと努力している。これが実情である。日本が中国を挑発し攻撃することがない限り、中国が日本を攻めてくることはないのである。

ところで、尖閣諸島についてだが、先の大戦の戦勝国や国連が戦後の明確な国境の決定をしなかったばかりに、今こうして国際間の紛争の種になっている。たぶんアメリカは、のちのち日本と中国の間で紛争がおこるように意図的に国境を不明確な状態にしておいたのだろう。1968年に国連が尖閣諸島付近に地下資源があると発表し、その翌年日米間で沖縄返還が合意された。すると間もなく中国・台湾が尖閣諸島の領有を主張し始めた。絶妙なタイミングで紛争の種まきをしたものである。国連はアメリカの下部組織と同様なものなので、地下資源調査発表と沖縄返還合意発表は計画的に連動していたのであろう。

そもそも、石油利権獲得のために世界各地で戦争をしかけるアメリカが、地下資源に恵まれた尖閣諸島とともに沖縄を簡単に手放すはずがない。もし尖閣諸島に採算のあう豊富な地下資源があるのなら、沖縄の領有を含め尖閣諸島の領有を死守していたはずである。沖縄を手放したのは尖閣諸島にたいした地下資源がなく、むしろ今後のこの地域の紛争の種として利用したほうがよいと判断したからであろう。

いずれにしても、アメリカがまいた意図的な紛争の種によって、東アジア諸国や東南アジア諸国がいがみ合う状況はまさにアメリカが望むものであり、アジア諸国にとっては大きな不幸以外の何物でもない。アジア諸国は互いに助け合える部分がたくさんありともに発展できるはずなのに、それを望まない勢力や国がアジア諸国の仲たがいを扇動しているという情況を認識できる確かな目を我々は持っていなければならない。


写真

2015-08-22 21:36:38 | Weblog
学校からの帰り、母が死んでいるのではないかとなぜか不安になる。急いで家路を走る。家に着くと、そこにはいつもの元気な母の顔がある。ひとりホッと胸をなでおろす。小学時代の思い出。

5日前、母が亡くなった。家族に見守られて安らかに旅立った。その直後、左目の外端に糸をひいて丸い一粒の涙の雫があり、右目の内端にも二粒ほどの涙がたまっていた。数時間前から意識はなかったはずなのに、きっと家族の呼びかけは聞こえていたのだろう。

亡くなる数日前からは、家族の腕を手で握りたがるようになった。片腕を母の手に任せ、別の片腕で僕は小説を読んでいた。まだ当分大丈夫だと思っていて、そんなに早くとは思わなかった。あのとき、もっと長い時間付き添って目を合わせて上げればよかったのにと、今になって思う。

遺影の写真は、鮮明な写真がなかなか見つからず、ただひとつ着物の着付けの資格証明の写真だけが鮮明に写っていた。しかし、顔の表情がきついのでそれはやめにした。母がつらかったときの写真なのだろう。鮮明さではなくイメージを基準に選んだら、母が食堂経営をしていた頃の写真にたどり着いた。銀行に勤め始めた長兄が初めて車を買い、名護の桜まつりに家族を連れて行ったときの写真である。背景は満開の桜なのだが、遺影用に加工してもらった。食堂経営をして、精神的にも充実していた頃であり、顔が生き生きしている。

若い頃の写真に楽しそうで生き生きしたのが多く、年齢を重ねた写真に嬉しそうなのが少ないのを申し訳なく思う。

子供たちよりもずっと若い母の遺影写真なのだが、父は気に入っているようである。けっこう美人なのである。

ここ数日、遺影の写真を見ていると、若かった頃の母のイメージが晩年の母のイメージに取って代わることが多い。若かった頃の母も晩年の母も同じ過去の事実であり、どちらもそれぞれの意味がある。昔の美人のまま遺影に納まって、母もまんざらでもないのだと思う。