社会適合2

2006-11-22 17:35:31 | 自立の定義
国家や市民社会、家庭という共同体は、あるべき社会の姿を希求しつつ、その全体社会に適合できる人材を育成する。
学ぶ人は、「社会適合」を目標にし、教える側は「社会適合」の方法論を考える存在ということになりましょうか。

・・・と前回書きましたが、個人は社会適合を目標に生きると表現するのは厭な感じがします。

国家や市民社会、家庭が共同体として社会適合を好ましいものとするのは、市民社会が個人の自由な欲求を追及する場であるから、共同体はその自由を調整する制度をつくる役割をするからでもある。
だから、個人は自由に欲求を追及することの先にあることが目標であろう。
ただし、その自由は、ヘーゲルが言うように、「他人と豊かに交流」を持つこと、すなわち、他人の権利を侵害しない、他人の自由を犠牲にした関係ではない。

自由・・・自由は精神のあり方の核心をいう言葉で、
個人の精神においては、
個人が自立して自由に振舞いつつ、他人と豊に交流を持つこと
集団の精神においては、
集団が個人の自由を保障しつつ、集団としての活力と統一性を保持すること
(ヘーゲル:精神の自由)

こうした議論が何に役立つのか・・・たとえば・・・国家と教育制度の問題

今日の国会で、教育基本法の改正質疑をしておりましたが、
大臣は教育の中身の話、質問者は国の役割と地方自治体の首長の権限の議論で、「地方分権」などというステージの異なる論題で、国家の干渉という体制批判的な主観が見える内容、質問の仕方も要領得ないし・・・だらだらと平行線の会話していました。
多分、大臣や与党の人たちと、テレビ中継を見ていた多くの国民は、
アッタマ悪う~って、思ったに違いない。

でも、そういうことを一切思わないで、相手の意見を尊重して聞くという態度が
教育者なんだよね。
少なくとも、相手の理解の程度を知ることになるので、それならば相手に理解していただくための説明が不足していることを反省できます。

学校以外の場では・・・なかなか・・これができる人は多くないと思うけど。
できたら・・・素敵ですね。
意見の相違がある場合など、相手をバカと思わずに話せますか・・・

そう・・書きながら・・・「私もそうかもしれない」「よくあるわ」と・・・