つれづれごと。

SD他、管理人葉月の日常の中で思うことを綴ります。※SDに関しては、必ず5/29「はじめに」をお読み下さい。

愛とは、相手のために自分の時間を使うこと。

2014-08-13 16:00:18 | DD(ドルフィードリーム)

…と、かつて、大好きな神父様に教わりました。

本来は、「だからこそ、神を愛するならば、積極的に『祈りの時間=神と共に過ごす時間』を持つように」と続くのですが、最近ふと気付いたのが、これって、すべてに応用できるのだということ。

例としては、熱愛する恋人とはいつもいっしょにいたい。できるだけ一緒の時間をとりたい。だから、何としてでもその時間を作ろうとする。

…ということになると、夫婦、親子、家族でもこれって同じことがいえると思うのです。まぁ、相手の自由を束縛する言い訳に使われてしまったら、目も当てられない話になるのですが、「お互いのペースを尊重しつつ」「一緒の時間を作ろうとする」と表現すれば正確でしょうか。

で。

実は、人形を可愛がる、というのも同じことが言えるのではないかと思います。

私は元々スーパードルフィー(以下、SD)をやってました。子供の頃はリカちゃんとジェニーです(でも、私のリカちゃんはなく、姉のお古でした)。

今はそれほどでもないようですが、私がSDにはまったころは、「カスタムメイクして」「服を作って」こそ可愛がっている!と感じさせられる風潮でした。自作の服を縫わない、カスタムメイクをしない、となると、肩身が狭い思いをするような。

当時、SDは、「下手なメイクでも自分のメイクした子はかわいい」という意見が主流でしたが、私の場合、「下手なメイクは下手」でしかないのです。他人の場合は気にしないのですが、自分のメイクは粗ばかりが目について、可愛いなどとはかけらも思えない状態でした。

私は「綺麗な人形を愛でたい」のであって、自作の「下手なメイクの人形」が欲しいわけではない。そんな人形を愛でたい訳でもない。じゃあメイクの練習をすれば?と言われそうですが、別にメイクをしたくて買った訳ではないので、メイク練習をしたい訳でもない。

なので、我が家の子はデフォメイクで可愛がれる子メインで、何人かはカスタマーさんのメイクの子でした。でも肩身が狭いのは相変わらず。

ドルフィードリーム(以下、DD)になると、こちらはカスタムメインのドールにもかかわらず、デフォメイクでも買った服でもOK、という気楽さが、メイクも服作りも下手な私には有難いものでした。

しかし、SDであれDDであれ、買った服を着せて終わり、という遊び方では、えんえんと新しい服を買い続けなければならず、何か違うとずっと思っていました。

演劇的な遊びも、いつか飽きます。どんな物語を作ろうと、物語にはいつか終わりがきます。

すると、もうその人形で遊ぶ遊び方がなくなってしまい、「好きなのに遊べない」状態になって、「眺めるだけ」になり、「飽きたのかなぁ…。でもまだ好きなのになぁ…」みたいな気持ちになっていました。

先日迎えたあの子のおかげか。

何をしなくてもいいんだ、その子と過ごせばいいんだ、と思えるようになって。

はたと、表題の言葉を思い出しました。

お人形に使うにはもったいない言葉かもしれませんが、すべてに応用できることなんだ、と気付いたのが嬉しかったので、記録です。

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