今日は地元中央区「平尾ウォーキングマップ」を参考に、ご近所を歩いてみました。
中央区桜坂の交差点にあるコンビにから南側へ坂道を登っていくと、立派な教会が建っています。

車道を外れ、教会の左手を更に進むと道は舗装も切れ山道になって行き、南公園の展望台へ登ることができます。

展望台下の広場に「中山(孫文)記念碑」が建っています。(中国語「紀念:jinian」は日本語の「記念」)

中国辛亥革命を主導した孫文は世界中を遊説して廻り各地華僑から革命資金援助を受けましたが、日本へも9度尋ねて福岡にも滞在したそうです。
実は妻の宋慶齢とは1915年に東京で結婚式を挙げています。
西日本新聞のHPには、1913年に孫文が来博し、九州帝大で講演した模様(孫文紀行8)が詳しく記載されています。
記念碑は昭和40年、彼の生誕100年を記念し、地元の架橋や有志によって建てられたようです。

中国語の碑文は建築当時の中国長崎領事によるものでした。
孫文は革命活動中清国政府に追われていましたので、日本滞在中には「中山:なかやま」の偽名を手紙などに使っていました。
それが今でも中国各地の公園や道路の名前に残っています。

本日はご近所に意外なものを発見しましたが、次の目的地「野村望東庵山荘跡」に向かって動物園正門方面へ降りていきます。
中央区桜坂の交差点にあるコンビにから南側へ坂道を登っていくと、立派な教会が建っています。

車道を外れ、教会の左手を更に進むと道は舗装も切れ山道になって行き、南公園の展望台へ登ることができます。

展望台下の広場に「中山(孫文)記念碑」が建っています。(中国語「紀念:jinian」は日本語の「記念」)

中国辛亥革命を主導した孫文は世界中を遊説して廻り各地華僑から革命資金援助を受けましたが、日本へも9度尋ねて福岡にも滞在したそうです。
実は妻の宋慶齢とは1915年に東京で結婚式を挙げています。
西日本新聞のHPには、1913年に孫文が来博し、九州帝大で講演した模様(孫文紀行8)が詳しく記載されています。
記念碑は昭和40年、彼の生誕100年を記念し、地元の架橋や有志によって建てられたようです。

中国語の碑文は建築当時の中国長崎領事によるものでした。
孫文は革命活動中清国政府に追われていましたので、日本滞在中には「中山:なかやま」の偽名を手紙などに使っていました。
それが今でも中国各地の公園や道路の名前に残っています。

本日はご近所に意外なものを発見しましたが、次の目的地「野村望東庵山荘跡」に向かって動物園正門方面へ降りていきます。