上海下町写真館2010

上海より半年ぶりに帰国しました。マイペースで故郷の風景や歴史などをご紹介します。

広田弘毅像:落日はまた昇るのか

2011年12月12日 06時04分03秒 | ふるさとの風景
福岡市立大名小学校、高等小学校、県立修猷館卒業後上京し一高、東京帝大法学部政治学科を経て明治38年の外交官試験を受験しますが英語で失敗。その才能を惜しまれて1年朝鮮総督府勤務、翌年主席で合格し外務省入省。同期入省に吉田茂がいます。



外交官時代は清国北京公使館付外交官補を振り出しに、ロンドン三等書記官、本省課長などを歴任後、昭和2年オランダ公使、昭和5年ソビエト連邦特命全権大使を勤めています。

昭和8年外務大臣、2.26事件の昭和11年総理大臣、翌12年に内閣総辞職。翌年6月には再度外務大臣となり翌13年には辞任。
政権が次々と変わり、軍部の独走で戦争へと突入する困難な時代に外交を任され、東京裁判では沈黙を貫き死刑となりました。

生家の碑が天神の裏通りにひっそりと建っています。

その時代、平民出身でありながら学歴立身出世の典型と知られました。

父は石工で、東公園の亀山上皇像の銘板に父徳平の名が刻まれているとか。


彼の伝記、城山三郎著「落日燃ゆ」では当時の困難な時代背景が描かれています。
平成の現在、国内はFTAなど外交問題でも世論が2分されています。
困難な政治的課題山積の日本、果たして落日はまた昇るのでしょうか。

7/30記事「博多区御供所町辺り(2)聖福寺」は彼の菩提寺となっています。