波と狛のつれづれ日記

日本スピッツ波と狛と、ときどき箔

幻の堀江県

2016-12-24 01:01:32 | 探求シリーズ
こんばんは、白黒茶々です。
年末に近付いているというのに、ここのところ12月にしては暖かい日が続いていますね。 ………というのは、私のいる地域のことで、北海道や東北、北陸地方では雪便りが聞かれるようになったそうです。 そのような状況のなかで、年末年始は故郷や実家で過ごすために、その準備をされている方もいらっしゃることと思います。やっぱり、生まれ育った場所っていいですよね。そんな皆さんのため(?)に、今回はある県の話をさせていただきます。



………ということで、私は箔や波とともに先月末にも取材に訪れた、浜松市の舘山寺にやって来ましたよ こちらは浜名湖の東に位置する内浦で、風光明媚なところでもあります。



そのすぐ近くに、市内屈指の高級温泉旅館の、ホテル九重があります。こちらはまわりの景色がきれいな上に、地元産の食材を使った料理も美味しく、さらに舘山寺温泉も素晴らしくて、三拍子揃っております。 ただし、今回はその宿泊レポートではなく………



ホテルの玄関近くには、「堀江城奥御殿の鬼瓦」なるものが飾られています。実はこの場所は、かつては県庁所在地だったのですよ。 ちなみに、その県の名前は……… って、もうおわかりですよね?そうです 今回の日記のタイトルにもなっている、堀江県であります。



話せば長くなるのですけど、とにかく今から650年ほど前にまでさかのぼります。 このあたりは室町時代中期頃から大澤氏の領地で、浜名湖に突き出た御陣山に堀江城を築き、本拠地にしていました。子供だけではなく、大の大人の絶叫もしばしば聞こえる、遊園地の浜名湖パルパルがある小高い丘が、堀江城の跡とされています。



16世紀後半に遠江に侵攻してきた徳川家康は、堀江城を攻めたのですけど、のちに和睦。大澤氏は徳川家に従うことになりました。 石高は5600石と、大名に認定される1万石には及ばない旗本でしたけど、吉良上野介と同じ高家(こうけ)の扱いでした。しかし、江戸時代初期に幕府から出された武家緒法度のなかの一国一城令により、堀江城はお城としての機能を失いました。その法令は、1つの国には1つのお城しか認めないというもので、少ない石高の大名や大澤氏のような旗本は、お城には住めなかったのです。
そんな彼らの住まいはどうなっていたのかというと、石垣や櫓などの防御機能が簡略化され、御殿などの居住空間がメインとなった「陣屋」という屋敷を構えていました。 なので、大澤氏は堀江城の一部を堀江陣屋として活用していました。


大澤基寿公

それからさらに時を経て、明治時代に入ってから大澤家は政府に、開墾によって10006石になったと申告しました。 それは、埋め立て計画地を含んでの申請だったのですけど、当時は政府が成立したばかりで混乱していたこともあって、ちゃんとした調査をしないで受理してしまいました。 その結果、明治元年(1868年)9月に大澤家は大名となり、堀江藩が成立しました。さらに明治4年(1871年)7月には廃藩置県によって、堀江県と相成りました。



これによって、浜名湖東岸に突き出す庄内半島とその付け根だけの、推定16平方キロメートルの超ミニ県が誕生しました。その際、藩主の大澤基寿(もとひさ)は堀江県の県令(初期の頃の知事の呼び名)に就任しました。



私たちは、浜松市西区庄内町にある宿蘆寺(しゅくろじ)にやって来ました。 こちらのお寺は大澤家の菩提寺でもあります。総門に続く道は「おんな城主直虎」で、柴咲コウさん演じる直虎(次郎法師)が、龍譚寺の南渓和尚を訪れるシーンに使われたそうです。 その門を潜り………



さらに石段を上っていったら………



立派な鐘楼や………



本堂が見えてきました。 こちらのお寺は、文正元年(1466年)に命天慶受和尚 によって創建されました。こちらの建物は、安永5年(1776年)に建立されたそうです。このあたりで、堀江県のその後の話をさせていただきます。
堀江県が成立した年の11月に政府の調査が入って、虚偽が発覚 内部告発という説もあるのですけど、それによって堀江県はわずか5ヶ月ほどで浜松県に編入され、消滅してしまいました。 この一連の騒動は、のちに「万石事件」と呼ばれるようになりました。さらに私たちは、お寺の境内のあるところを訪れたいのですけど、いくら探しても見当たりませんね。 あ、お寺の方ですか?○○って、どこにあるのか教えていただけないでしょうか?



そうしたら、お堂の間にある道を行くように案内してくださいました。こんなところに答えがあったなんて とにかく、行ってみましょう。 その先で、私たちが見たものは………



大澤家のお墓にございます。高家ということもあって、立派な石塔が立っていますね。



ただし、そのなかの1つは倒れたままになっているのですけど。
万石事件によって大澤家は華族に格下げされ、基寿は禁固1年。虚偽報告をした家臣は、平民にされたうえに禁固1年半の刑に処せられてしまいました。 そのおかげで基寿は困窮し、堀江陣屋の御殿や門を売却して、生活の足しにしました。



湖西市新所の法泉寺には、陣屋の門が現存しています。 ただし、基寿のお墓はこちらではなく、東京駒込の吉祥寺にあるそうです。



大澤家のお墓は、最近浜松市の史跡に指定されたのですけど、案内看板や説明板のようなものは設けられていませんでした。それでも、宿蘆寺の隣接地に造られた浜松メモリアルガーデンから入っていけば、見つけやすいです。

堀江県を吸収した浜松県は、さらにまわりの県と合併し、紆余曲折を経て現在の静岡県に落ち着きました。皆様が浜松の舘山寺方面や浜名湖ガーデンパークなどを訪れた際には、少しでも「昔、このあたりが堀江県だったのか」と思いを馳せていただけたら、嬉しいです。

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