波と狛のつれづれ日記

日本スピッツ波と狛と、ときどき箔

そうだ!熊野に行こう(熊野紀行その1)

2017-03-25 01:11:43 | 旅行記
こんばんは、白黒茶々です。
3月も下旬にもなると、厳しい寒さから解放され、春の暖かさを感じるようになります。 そうすると、桜の開花まであと少しですね。また、春といえば行楽の時季でもあります。私は仕事柄、GWや盆暮れ正月以外に連休を取るのが難しいのですけど、春分の日を含めた今月の19日~20日はたまたま休めるようになりました。その連休をフルに活用して、私は以前から気になっていた地域に行く計画を立てていました。



その地域とは、白黒茶々地方と同じ東海地方の三重県にありながらも、和歌山県との県境に近いところに位置している熊野市御浜町のことです。そこには、大学時代からの私の友人のM君や、箔波日記にもしばしば出てくる、へげたれ妻さんがお住まいになっているのですよ ウチからはかなり遠く、私にとっては未踏の地でもあるので、行くにはかなりの勇気と覚悟が必要でしたけど、その目的地で彼らと逢う約束もしたので、士気が高まりました。 さらに、そこまで行ったらもうちょっと頑張って、和歌山県の新宮城まで足を伸ばしてみたいですね。
このようにして、私にとっては大遠征となる春の旅が決まりました。今回は長旅なのですけど、状況によって臨機応変に対応できる車での移動にしたので、も連れていくことにしました。

ところが、白ふわオフ会の日程も、19日となりました。 春のイベントとしてすっかり定着している、なつみかんさん主催のそのワンコ行事は、開催地が地元というだけではなく、遠方からもたくさんのお仲間がやって来ることになっています。私はかなり悩んだのですけど、熊野への旅は代替え日が確保できず、この機会を見逃したら次はなくなりそうだったので、その日は泣く泣く地元を離れることにしました。

初日は日の出前の早朝に自宅を出発すると思いきや、目的地が初めて行く遠いところということもあって、前日に夜経ち&行けるところまで行って車中泊という手段を取ることにしました。 ということで、18日の土曜日は身支度を済ませ、箔と波を車に乗せて22時半過ぎに自宅を出発。 豊橋バイパスを経て、岡崎インターチェンジ(以下IC)から東名高速道路に入っていきました。 さらに今回は、湾岸道路に流れ………



日付が変わってから、最初の休息地となる刈谷パーキングエリア(以下PA)に到着しました。こちらのPAは、観覧車や日帰り温泉施設などのある刈谷ハイウェイオアシスとも接続しているのですけど、それらの施設はその時間帯ではさすがに漆黒の闇の中に沈んでいました。



さらに私たちは高速道路を飛ばし、三重県に突入 長島スパーランドの夜景を眺め、御在所SAでのトイレ休憩を経て、2時少し前には松阪SAの手前にある嬉野PAにたどり着きました。 看板がテカってしまって見づらいのですけど、正真正銘の嬉野にございます。 この日の移動はそこまでにしておいて、簡易宿泊システム(車中泊)で寝ることにしましょう。では、おやすみなさい。 ZZZ………



話の展開上、ドラゴンクエスト並みに一瞬で夜が明けたことにさせていただきます。 私が歯磨きや洗顔をしたあとは、箔と波を小散歩させ、ブラッシングをしたら………



ご飯をお上がりなさい。 彼らは場所が変わっても熟睡できたみたいで、ご飯のほうにもいつものように勢いよく喰らい付いていました。それが済んだら、今度は私が朝の朝食モーニングをいただくとしましょう。 私たちは松阪SAを出たあと、松阪市内に入っていき………



私はちょっと豪華に、ココス朝食バイキング(税込842円)をいただきました。 小おかずに加えて、卵かけ御飯や数種類のパンがあり、自ら生地を流し入れて焼くワッフルも備えられていました。もちろん、スープや味噌汁、コーヒー、ジュースといったドリンク類も、おかわり自由でしたよ!おかげで、ちょっと食べ過ぎてしまいました。
お腹も心も満たされたら、気合いを入れて紀伊半島を南下しますよ 目指すは、三重県を通り越したところにある、和歌山県新宮市にある丹鶴城公園(新宮城)です。私たちは松阪市から国道42号線をひたすら辿っていき、多気町、大台町を経て、道の駅奥伊勢おおだいで一旦休憩。 さらに大紀町から………



紀北町の、道の駅紀伊長島マンボウに至りました。熊野灘に程近いこちらの道の駅では、アワビやサザエといった新鮮な魚介類が取り揃えられていました。 そして、私たちは尾鷲市、熊野市を通過し………



御浜町にある、道の駅パーク七里御浜にたどり着きました。 こちらの道の駅は、その名の通り七里御浜のすぐ近くにあるので………



せっかくなので、歩道橋からその海岸に出てみました。 熊野灘は私の地元の海よりどこか荒々しい感じですけど、海風が心地よかったです。そうしたら、今回の旅の最深部まであと少し。ラストスパートをかけて参りますよ



御浜町から紀宝町をまたぎ、熊野川を越えてすぐのところに、新宮城のある丹鶴山が聳えていました。 川の対岸からも、お城の石垣が見えてインパクトありありなのですけど、さらに川を越えた紀勢本線がその城山を貫通しているのですよ。そのことから、「ドラゴンボール」で、孫悟空が「オラのすべてをこの拳にかける!」と言って(元祖)ピッコロ大魔王に大接近!「はね返してくれるわ!」「つらぬけー!はーっ!」悟空が渾身の力を込めて、ピッコロ大魔王の体を貫通した、あの名シーンを思い浮かべてしまいますね。 そして………



私にとっては初めてとなる、新宮城にようやくたどり着きました。 もちろん、箔波ちゃにとっても初踏破となります。



こちらのお城は、山の麓の石垣もよく残っていますね。そうしたら、さっそく山頂の本丸を目指して登っていくことにしましょう



この石段は先程の道ではないのですけど、登っていくときの気持ちは一緒(?)ですよ。ちょっと急な道なのですけど、すぐに登り詰めることができました。 その先には………



松の丸の石垣と入口が見えてきたのですけど、足元がやや荒れていますね。うっかりヒールで来てしまった方は、足をグキッ!とやらないようにお気をつけくださいませ。



松の丸に続く鐘の丸の石垣も、見事ですね。
新宮城は、関ヶ原の戦いの後に和歌山城主となった、浅野氏の一族の浅野忠吉がこちらの領地を与えられ、慶長6年(1601年)から築かれたお城です。元和元年(1615年)の一国一城令によって一旦廃城となったのですけど、その3年後に再び築城の許可が降りました。しかし、その翌年に忠吉は三原に国換えとなり、お城が完成した姿を見ることなく彼はこの地を去りました。



松の丸からは、麓の熊野川沿いに設けられた水の手や舟入りの遺構も見ることができます。 こちらは最近発掘&整備されたみたいですね。そこまではかなりの高低差を降りていかなければならないので、眺めるだけでヨシにしてよろいしでしょうか?



さらに同じ場所からは、本丸の石垣も見えました。山頂を囲うように積まれたその石垣も、迫力がありますね。



本丸入口の舛形の石垣も、江戸時代初期に発展した「切込みハギ」という切り石を隙間なく積む工法によって築かれています。
元和5年(1619)、徳川頼宣が紀州徳川家の初代として和歌山城主となると、付家老の水野重仲が新宮城に入り、浅野忠吉の築城工事を継続。寛永10年(1633年)に城はようやく完成しました。



その後の新宮城は、廃藩置県によって廃城となり、建物はすべて取り壊されてしまいました。やがて城址は公園となり、平成15年(2003年)には国の史跡に指定されて、現在に至ります。
他と比べると小ぢんまりとしたお城なのですけど、河口近くの丘の上に築かれ、現在でも山を囲うようにして立派な石垣が残っているということもあって、見応えは充分あります。
実は私はこちらで、大学時代からの友人で熊野市の地元民でもあるM君と待ち合わせをしているのですよ。 それから間もなくして………



彼が現れましたよ 2年前の春に、白黒茶々地方にふらりとやって来たこともあって、今度は彼の地元のほうで逢いたいと思っていたのですけど、ようやくその願いを叶えることができました。 私と同じ文学部歴史学科出身ながらも、大きくてガッチリした体型のM君。ということで、次回はM君の案内による名所めぐりやそこにまつわる裏話、彼の武勇伝などが飛び交うので、そちらのほうにもぜひお付き合いくださいませ。


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