こんばんは、白黒茶々です。
前回から私・波・狛の白黒茶々家の1人と2頭は、浜松市の山間部の天竜区を訪れています。 その地域での洞穴めぐりのミッションを終えた私たちは、県道9号天竜東栄線をさらに北上していき………
その道路沿いの同区上野地区にある、天竜市立下阿多古中学校跡にやってきました。そうです 天竜区での2つ目のテーマは、廃校めぐりなのです。
後ろの案内がすべてを語っていますけど、この場所には昭和22年(1947年)4月から平成17年(2005年)3月までの58年の間、中学校が存在しました。
私が数年前に訪れたときにはあった体育館の建物は撤去されていましたけど、使用目的を失った校舎はそのまま残っていました。
政令指定都市の一部となっても、過疎化が進んでいる天竜区。下阿多古中学校は、こちらの地域がまだ天竜市だった頃に周辺の学校との統廃合によって閉校したみたいです。 校訓が刻まれた石碑が残されているのが、より寂しさを感じさせます。
しかし、きれいに磨かれたその表面にウチの車が写り込んでいるのが、その情緒を半減させているのですけど。
下阿多古中学校跡は立ち入り禁止となっているので、外から眺めることしかできないのですけど、廃校の雰囲気はそこまで伝わってきます。 閉校後に取り付けられた数枚のパネルからも、学校の様子を知ることができますし。
ということで、こちらでの調査は速攻で終わったので、次の目的地に向かいます。
先ほどの県道をさらに北上していき、石神の里キャンプ場をやり過ごし、同区西藤平の集落の高台を上っていくと………
「上阿多古ふれあいセンター」という施設に行き着きます。 浜松市のHPには「ふれあいセンターは、身近な生涯学習・地域のコミュニティの拠点となる施設です。当センターは、施設の貸し出しや講座の開催を通じて知識・教養・技術の学習の場や仲間づくりの場を提供します。また、各種届出・申請の受付、証明の発行などの窓口サービス業務を行います。(原文ママ)」と説明されていました。
「なんか学校みたい」と思われた方は、鋭いです 実はこちらは、かつて天竜市立上阿多古中学校だったところなのですよ。
現在、校庭の大部分はテニスコートとなっているのですけど………
その敷地の一角には、校訓が刻まれた石碑がありました。 上阿多古中学校は、下阿多古中学校と同じ昭和22年(1947年)4月に創立しました。
しかし過疎化の渦に巻き込まれて、こちらも下阿多古中学校と同じ平成17年(2005年)3月に閉校。近隣の学校とともに、11kmほど離れたところにある清竜中学校に統廃合されてしまいました。
よく見てみたら、校訓の下には校歌のプレートも埋め込まれていますね。
せっかくなので、今から歌ってみましょう。さあ、皆さまもご一緒に
さん、はいっ
………………
え~と……… そういえば、曲がわかりませんでした。
こちらの学校跡は、校舎や体育館が新たな形で活用されているので、いいですね。 それらを見終えたら、あともう1ヶ所。今度はより昔の学校の雰囲気がありありで、「薪を背負った少年」もいるところに皆さまをご案内いたします。
こちらから南に1.8kmほど、石神の里キャンプ場から近いといえなくもない小丘の上に………
天竜市立石神小学校跡はあります。 その校門の門柱には、「天竜ウッドワーク」という看板が掲げられていますね。
昭和2年(1927年)に輸入木材を利用して建てられた木造校舎は、ほぼ当時のまま残っています。
さらにその正面玄関の脇には、「薪を背負った少年」こと二宮金次郎の像が立っています。 彼は地図帳を見ながらキャンプ場を探していて……… というのはウソで、昔から教育の場では勤労・報徳・親孝行の象徴とされてきました。
こちらの学校は、明治6年(1873年)10月に旧石神村の正方寺を校舎に充てて開校。明治25年(1892年)に下阿多古村立石神尋常小学校と改め、その後校舎は何回か建て替えたりしました。 しかし昭和44年(1969年)3月に閉校し、現在は木材加工会社の天竜ウッドワークさんが作業場として利用しています。
古い木造校舎はどこか懐かしく、ホッとしますよね。 とはいっても、私が入学した小学校は前年に開校したばかりで、新築の鉄筋コンクリート製でしたけど。
それはさておき、私と波にとって旧石神小学校は6年半ぶりとなるのですけど、建物がしっかりとしたままで安心しました。
下阿多古中学校の校舎のほうが危ういのですけど、私の廃校巡礼が再燃するようなことがあったら、再び訪れてみようと思います。